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3151.「良い教育」とは何なのだろうか?


時刻は午後の九時を迎えつつある。つい先ほど、協働プロジェクトに関する明日のミーティングに向けた準備を終えた。

今日は夕方に、ハワード・ガードナー教授の“The Unschooled Mind (1995)”の初読を終えた。ガードナー教授の書籍を読んでいていつも思うのは、ほとんどの書籍が一般向けに分かりやすく書かれているということであり、その点にいつも感銘を受ける。

今回の書籍は、確かに記述量としては非常に多いのだが、文章が平易であるため、多くの読者にとってとても読みやすいのではないかと思う。

本書を読みながら、改めて発達心理学者のローレンス・コールバーグが述べていた教育の目的について考えを巡らせていた。端的には、コールバーグは、教育の最大の目的を発達に置いていた。

ここで述べている発達というのは、心身両側面での発達であり、それは道徳的・倫理的な知性の発達を当然含んでいる。この点に関しては、ガードナー教授も同意しているようであり、私も教育の目的の一つには発達を挙げることができると思う。

教育は個人の健全な発達を促し、社会の健全な発達を促すことに資する必要があると思う。おそらくそれは教育の本質的な目的でありながらも、同時にそれは必ず満たさなければならない最低限の目的であるとも言える。

だが、現代の教育では、果たしてそうした最低限の目的が満たされているだろうか。個人が継続的な発達を一生涯にわたって実現させていき、発達に応じてこの世界への関与が深まり、社会の健全な発達が実現されていると言えるだろうか。

私にはそれが実現されているようには見えない。現代の教育は、コールバーグが述べる教育の目的の本質を見誤ってしまっているのではないだろうか。

そこからとりとめもなく、教育についてあれこれと考えていた。湧き上がる問いはどれも古典的なものでありながらも、教育哲学と密接に関わる本質的なものばかりであった。

結局のところ、「良い教育」とはなんなのだろうか?どのような教育が良い教育と言えるのだろうか。この問いに対して、より幅広く、より深く考えていきたいという思いが湧き上がってくる。

上記のコールバーグの観点は、良い教育を考える上で極めて重要な役割を果たすだろう。良い教育の条件の一つとして、個人と社会の発達を育むものであることを挙げることができるだろうが、当然ながら、これだけでは全く不十分だ。

もう少し具体的に考えようとしてみると、「学力が向上したのはいいものの、それによって子供たちの幸福度が下がっている場合に、それは良い教育と言えるのか?」という問いが湧いてきた。この問いは日本の教育の現状を指しているかのようだ。

より厳密には、本来極めて限定的な形で設定された「学力」なるものが、ある特定のテストによって低下傾向を示そうものなら、本来限定的に設定されたはずの学力なる虚構の産物を無理に引き上げようするような状況だと言えるかもしれない。これは本当に荒唐無稽な状況だと言えるだろう。

本来より慎重に定義づけられるべき「学力」が、非常に限定的なテストの点数などによって評価される類の狭いものとして捉えられ、しかもそれを向上させることに躍起になった結果、仮に子供たちの幸福度が下がっているような状況を生み出しているのであれば、そんなものは教育でもなんでもないだろう。

「良い教育とは何か?」という問いへの回答は終わりがないほどに多面的かつ深いものを考えることができるだろう。だが少なくとも、人間の発達と社会の発達を根幹に据えるということは極めて重要であると思うし、教育というものを一面的に捉えすぎる現代の教育思想は改善されていく必要があると強く思う。

「教育とは何か?」「良い教育とは何か?」という終わりのない問いと向き合い続けていくことは、自分に課せられた一つの大切な役割だと認識している。明日からもそれらの問いと向き合いながら、一つ一つ自分の考えを深めていき、それを教育の世界に還元していく試みに従事していく。フローニンゲン:2018/9/20(木)21:17

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