自分の内側に力強い生命力を感じる。それは自らの探究活動と創造活動を根幹から支えてくれているものであり、それは日々の充実感と幸福感の源泉になっている。
生命力を活性化させることがどれほど重要なことか。もしかすると、教育の本質の一つには、生命力の涵養が挙げられるのではないかと思えてくる。
こうした生命力は絶えざる学びと創造を促し、日々の生を十全なものとして営むことを可能にしてくれる。教育は調教とは異なるのであるから、一生涯にわたる自発的な学びを促進する必要があり、毎日を活力に溢れる充実したものとして送れるように支援する必要があるように思う。
自発的な継続的な学びと日々の充実感が相互作用することによって、人は初めて一人の人間として十全に生きられるようになり、そこから他者や世界への深い関与が生まれてくるに違いない。そうしたことを考えていると、生命力を育む教育の大切さが見えてくる。
学ぶ力というのは結局のところ、生きる力と同義なのではないかと思えてくるほどだ。そういえば、昨日も似たようなことを考えていた。
過去二年間は特に、私は科学の世界に身を置いていた。科学的な観点と手法を用いて人間発達と教育を探究することを、この二年間は集中的に行っていた。
そこから一転して今は、どうしようもないほどに哲学的な探究がしたいと思うようになっている。ここ最近読んでいる書籍はどれも哲学的なものであり、来年から再び学びを深めようとしていることも哲学的な内容だ。
芸術教育と霊性教育を哲学的な枠組みを通じて探究していくということ。そして広くは、人間発達と教育を哲学的に探究していくということ。それらが今の自分にとっての最大の関心事項となった。
もちろん、科学的な探究の重要性をないがしろにしているわけではないが、今後は実際に自分の手を動かして科学的な研究をすることはないのではないかと思われる。科学的な研究の中には固有の面白さや充実感があったのは確かだが、それらが吹き飛んでしまうほどの面白さ、充実感、そして意義が哲学的な探究の中にあることを見出している。
哲学的な探究を進めていて不思議なのは、それが生きる底力を生み出しているような感覚がすることだ。探究の底力に哲学を置くことは、いかなる探究領域・実践領域にも不可欠だと思うが、哲学は自分が日々を生きて行くための精神的支柱のような役割を果たしつつあることに気づく。
それは単純に私を支えてくれるだけではなく、力強い活力を授けてくれるようにも感じる。哲学的な探究を通して自らの思想を少しずつ育んでいくことの新たな意味がまた見え始めている。
生きる底力として、生へ活力を吹き込むものとして、哲学的な探究とこれから向き合っていきたいと思う。フローニンゲン:2018/9/17(月)07:32