昨夜は随分と冷え込み、就寝時に暖房をつけるかどうかを少々迷ったほとであった。今朝も同様に冷え込んでおり、寒さを感じる。
やはり最低気温が10度ほどになってくると肌寒さを感じるようだ。九月が終わりに向かっていくに従って、これからますます寒くなっていくだろう。
そうした最中にあって、昨日は自分の内側に紫色の炎が灯されているのを知覚するという体験をした。これまでは紫色の炎を知覚することはなかったように思うため、どうやら新たな情熱の質を見出したようだ。今日からは新たな情熱を携えて探究活動と創造活動に励んでいく。
時がゆっくりと流れている。日曜日も夕方の時間となった。
午後の作曲実践を終えた後に、人間を真に解放することに芸術の価値を置くよりも先に、芸術が特権的な地位から解放される必要があるのではないかということについて考えていた。
現代社会において、芸術が何か特別な人のためにあるという錯覚は何とかならないだろうか。そうした錯覚が存在している限り、芸術が真に私たちの生を深めてくれるものにならないように思えてくる。
本来、全ての人に何かしらの芸術的素養があるはずであり、それを自分なりの表現技法を通じて創造行為にし、それに従事していくことが、真に充実した生を送ることに不可欠であると考えるようになっている。
これは欧州での二年目の生活の途中から作曲実践を始めたことにより、自分の人生が大きく変わったという直接体験によってもたらされた考え方だ。また、おそらく同様の思想を持っていたのはエドヴァルド・グリーグだと思う。
グリーグは、万民のための憩いの家のような音楽を作ることに自分の役割を見出だしていたということが、彼の日記の中で明示的に示されている。現代社会の諸々の芸術は「万民のための憩いの家」というよりも、特権階級のための家に成り果ててしまっているように思えてしかない。
芸術教育の価値を考えていく際に、芸術というものを特別視、あるいは神聖視するような傾向から人々が解放されることが重要であるという点、芸術を特権階級から解放するという点を必ず考慮に入れる必要があるだろう。芸術教育の意義について考える際に、それらの点を忘れないようにする。
人間発達の観点からも、教育の果たす重要な役割の一つに、「影からの解放」「自己を縛るものからの解放」を掲げている私にとって、芸術が人間を解放するための働きをしていくだけではなく、芸術そのものが芸術を呪縛するものからの解放を成し遂げていくことが不可欠のように思えてくる。
これから入浴をし、夕食を摂った後に作曲実践をし、その後には、シュタイナー教育に関する専門書“Rudolf Steiner’s Curriculum for Steiner-Waldorf Schools: An Attempt to Summarise His Indications (2015)”を読み進めたい。フローニンゲン:2018/9/16(日)18:04