今朝は六時に起床した。TOEFL試験を終え、フローニンゲンに戻ってきてからの初日が始まる。今日からまた新たな日々が始まる実感がする。
それは昨日の日記で書き留めていたように、自分の探究に関する事柄だ。もう一度学び直しをするという覚悟に基づいた激しい探究がこれから始まろうとしている。
昨日ふと考えていたのは、人が一生変えられないのは魂の固有の特質と無知さなのではないかというものだった。自らの無知さと一生向き合いながら前に進んでいくこと。そうした生き方を今日から貫いていく。
早朝起床した際に、辺りはまだ真っ暗であったが、空に雲の塊が浮かんでいるのが見えた。今日はどうやら一日を通して曇りのようだ。
しかし、フローニンゲンが持つ落ち着きは天候に左右されることがない。この町の持つ感覚質は天候の変化を超越している。
落ち着きの最中にあって自らの探究活動と創造活動に打ち込んでいく。そのようなことを朝に誓う。
昨日湧き上がってきた、とにかく学びたいという衝動は今朝のこの瞬間においても依然として内側にあり続けている。芸術教育と霊性教育を核に据え、教育哲学を深く学んでいくこと。
それについて思いを馳せるだけで、学びたいという衝動が爆発しそうである。教育哲学を通じて、子供の教育と成人の教育をこれまでの自分にはない観点で考察をしていくこと。そうした試みに今日からまた少しずつ従事していく。
昨日、学びにはなぜ師が必要であり、同時に究極的には学びは独学である必要があるのかについて考えていた。学びにおいて師が必要となるのは、彼らから単に知識を伝授してもらうというよりも、一探究者としてのあり方や生き方を肌感覚で学び取っていくことが一番大きな理由なのではないかと最近思う。
正直なところ、知識を学ぶのであれば、それは書物や論文を読んでいれば事足りることが多い。だが実際には、そうした知識を動かす媒体そのものを養っていくことが何より大切であり、書物や論文の形にはなりえない暗黙知のような知識があることを忘れてはならない。
ある意味それは叡智のようなものであり、叡智はそれを持つ人との直接的なやり取りを通じてしか学べないのではないかと最近よく思う。その背景には、私が色々な場所に旅行に出かけるたびに、その土地固有の文化は、実際にそこを訪れ、肌感覚でしか感じられないものだという経験を常にしていることが挙げられる。
また、これまでの学びを振り返ってみたときに、やはり叡智を持つ人との直接的な交流がどれほど深い学びをもたらしたかを考えてみると、師との直接的な触れ合いがいかに大切かがわかる。今の私は、芸術教育や霊性教育、そして教育哲学に関して師を求めているようだ。
幸いにも、師と呼べそうな人たちが何人か見つかっている。今後機会に恵まれれば、そうした方々と直接的な交流を行うことになるだろう。
一方で、学びは究極的には独学が必要であるというのは、各人固有の知性の特性による。偶然ながら、エマーソンについての過去の日記を読み返していると、エマーソンも私たち一人一人が持つ知性の固有さを認め、そうした固有性を鑑みた学びをする重要性を説いていた。
まさにこの点は、多重知性理論で有名なハワード・ガードナー教授も同様のことを述べている。確かに私たちは師との直接的な触れ合いによって叡智を学んでいくことが可能だが、自らの叡智を育んでいくためには、自分の知性の固有性に合致した自らの学びを継続していく必要があるように思う。
師へいつまでも依存していては、自分の叡智を育むことはできない。一人一人の人間の知性が固有のものであれば、各人固有の叡智が存在していても何らおかしなことではない。
現代社会において、各人が自分の叡智を見つけられず、それを発揮することができないのは、結局のところ、師への依存関係が継続しているからか、あるいは自分の知性の固有性に合致した独学を継続していないからだろう——あるいはそれらの双方が考えられる。
昨日はそのようなことを考えていた。フローニンゲン:2018/9/16(日)06:51
No.1315: A Dance of Shadows
Shadows in our psyche can do evil, but they can also do a spectacular dance.
Regarding shadows as the root of all evil might be a Pandora's box. Groningen, 20:28, Friday, 10/12/2018