澄み渡る早朝の空を見ながら、現代社会の有り様についてふと考える。先日、過去に作った曲を聴いている時に、時代の救世主の疲弊ぶりを感じるような瞬間があった。
現代社会においては、多くの人が精神的にも肉体的にも疲弊しているように思えるが、それは時代の救世主においても同じなのではないかと思っていた。救世主ですら疲弊をしてしまう社会の中に自分が生きているということ。救世主など現れなくなって久しい時代の中に生きているということについてぼんやりと考えていた。
今日は本当に空に一点の雲もない。一日を通してこのような快晴が続くようだ。
時計の針が午前七時を回った時、目の前の通りの工事がゆっくりと始まった。当初の予想よりも随分と時間がかかっている工事だが、それでも着実に進行している様子を見て取ることできる。
近所のスーパーに行く際に、これまでは迂回する必要があったのだが、今はもう歩道の整備は終わり、迂回の必要はなくなった。今月末までに、あるいはボストン旅行から帰ってくる頃には工事が終わっているかもしれない。
自分の内側の世界のみならず、身の回りの世界を観察していると面白ことに気づくことがよくある。昨日の夕方は、面白さという表現では捉えることのできない神秘的な現象を目撃することになった。
昨日は、一日を通して空には雨雲が張り巡らされていた。だが、夕食後には雨雲が徐々に消え、うろこ雲がフローニンゲンの空一面に現れた。そして夕日がそのうろこ雲を照らす様が圧巻の美しさであった。
書斎で仕事をしている最中に、ふと窓の外を眺めると、その美しい黄金色の輝きに気づき、私はすぐにその場を離れ、窓際に駆け寄った。そこには息を呑むような夕日があり、その光がうろこ雲を美しく照らしていた。
まさにそれは自然の神秘であった。しばらくその様子を観察し、再び机に戻ってしばらく仕事をしていると、今度は夕日の色が赤紫色に変わっていることに気づいた。
時間の経過と共に徐々に輝きが変化し、赤紫色に輝く空は本当に美しかった。それはオーロラのような美しさだったと言っていいだろう。
時間の進行と共に変化していく夕日を眺めていると、モネの美しい絵画作品のいくつかが、時間の経過と共に動いていくかのようであった。自然がもたらす神秘的な美を見ながら、確かに自分の内側には美を感じる何かが備わっており、それは自然の美と共鳴する性質を持っていることがわかった。
これは自然の美だけではなく、私たちは美しいものに共鳴するような特殊な性質や感覚を内在的に持っているのかもしれない。昨日見た美しく輝く夕日について思い出していると、このあたりにも美学や芸術・霊性教育を考えるヒントが多分に含まれているように思えてくる。
これから確かに寒い季節に入っていくが、昨日見たような夕日が頻繁に現れる季節でもあることを考えると、それはまた一つの大きな楽しみだ。自然の美を楽しみ、そこから美を感じる人間存在について考えていこうと思う。
今日も美しく輝くような一日になるに違いない。フローニンゲン:2018/9/13(木)07:34