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3098. 忘却の河と無邪気な死の影


時刻は午後の三時半を迎えた。早朝に引き続き、空の大部分は雲に覆われているが、時折陽が差し込んでくる。

今朝はとても肌寒く、とても静かであった。今もその静けさは変わらないが、寒さに関しては幾分暖かくなっている。つい先ほどまで部屋の中でも長袖を着ていなければならなかったが、今は再び半袖で過ごしている。

午前中、過去に作った曲を編集していると、いくつか興味深い感覚に陥った。一つには、私たちの日々は、もしかすると忘却の河の中で営まれていると言えるかもしれない、という気づきをもたらす感覚である。

つい先ほども、遥か昔の幼少時代の記憶が突然蘇り、私はその記憶の中にいた。記憶そのものがいかに喜びに満ちたものであったとしても、その記憶の中に浸り、そこから出てくるときには何かもの哀しさのような感覚になる。

一方で、そうした記憶が自分の内側に依然として残っているということ、さらにはそうした記憶が今の自己を形成することに結びついているのだと思うと、もの哀しさ以外にもどこか感動すら引き起こすような気持ちになる。

私たちは日々諸々のことを忘れていくが、決して忘れられずに残っている記憶というものがある。それは私たちの存在の保全にとって重要であるばかりか、私たちの存在を深めることにおいても重要なのではないだろうか。

今日もこのようにして一日を生きているということが、将来の記憶の一つになるだろう。今の体験や感覚が将来の記憶として形作られていくことを思うと、やはりたまらない気持ちになる。この気持ちについては他にまだうまく説明ができない。

もう一つ、自分の内側に無邪気な死の影が駆け抜けていくのを感じた。これも午前中に曲を編集している時に体験していたことである。

その死の影は純粋無垢であり、表面上はとても陽気であった。その影が深層に持つ部分を探ろうとすると、その影は私を深層に入れてくれはしなかった。そのため、表層的な意味以上のことは何もわからないまま、その感覚が過ぎ去っていった。

先日、就寝前に、ふと自分がこの世に生まれてからまだ30万時間未満しか経っていないことを知り、愉快な気持ちになった。同時に、30万時間近く生きてきたことにどこか感慨深い思いになった。

欧州での生活を始めてから、生の有限性に対する意識が鋭敏なものになっている。そうした意識が鋭敏になればなるほどに、自分の思考や感覚までもが鋭敏なものになりつつあるように思う。

死という現象を取り巻く諸々の事柄があまりに錯綜としており、死の本質に迫っていくことが極めて難しい。複雑に絡みつく糸のような諸事象を紐解いていく試みに少しずつ従事する必要性をこのところ感じる。

おそらくそれをしなければ、自らの生を生きることはできないだろうし、それを生き切ることなどできはしないだろう。

穏やかな西日が街路樹に降り注ぎ、街路樹は緩やかな風に揺れている。日曜日の午後がゆっくりと進行している。フローニンゲン:2018/9/9(日)15:55

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