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3086. 「天命」について


目の前の街路樹に小鳥たちが集まってきた。ピヨピヨと元気よく鳴き声を発している。

先ほどバッハの四声のコラールに範を求めて一曲作った。以前に四声の曲の作り方に関する理論書を二、三回読んだのだが、結局今はなんとなく曲を作っている日々が続く。

例えば、バッハの楽譜を眺め、そこに見出される構造的パターンを把握したら、そのパターンをいったん自分の内側に取り込むような意識を持ち、その後は、取り込まれたパターンをもとに感覚的に音を並べていくということが続いている。

もちろん、最初に構造的パターンを把握したら終わりではなく、曲を作っている合間合間に何度も楽譜を眺めるようにしているのだが、結局のところ自分の作曲は感覚に依存する要素が非常に強い。それもそのはずで、私は正規の音楽教育を一度も受けたことがないからだ。

昨年から少しずつ作曲理論の解説書を読みようにしているが、そうした書物を読むよりも、やはり実際に曲を作る方が充実感があるため、ついつい理論書を読むことから離れてしまう。実践を何よりも優先するというのは決して悪いことではなく、それはむしろ歓迎するべきことだろう。

ただし、現在の私は強く自分の感覚や直観に依存して曲を作っていることを考えると、生み出される曲は現在の自分の感覚や直観を超えることがないということが見えてくる。自分の感覚や直観の枠組みを超えていくためにも、理論書を少しずつまた読むようにしたい。

北欧旅行から帰ってきても、相変わらずシベリウスの曲を聴き続けている。旅の最中はずっとシベリウスの曲を聴いていた。

シベリウスのピアノ曲や協奏曲を中心に、それは私の旅の友となり、今もシベリウスの曲が書斎の中で鳴り続けている。街路樹にとまる小鳥たちの鳴き声とシベリウスの曲に囲まれた日々。

そういえば、シベリウスも鳥を愛していたことをふと思い出した。鳥の舞う姿や鳥の鳴き声には、楽想を生み出す恵みが含まれている。そのようなことを私も思う。

先ほど、「使命」という言葉について日記を書き留めていたように思う。その後すぐに、「天命」という言葉が想起された。

それらの言葉は同義であるが、各々が持つニュアンスは若干異なり、もしかすると二つの言葉には重要な関係性があるように思えてくる。自己の意思を超越した存在を仮に天と呼ぶのであれば、天から必ず何からしらの促しがいつか私たちにもたらされる。

その促しに基づいて私たちは人生の出発をする。それは本当の意味での出発だ。

そこから私たちの真の人生が始まり、私たちは自らの生命を活用する形でこの世に奉仕し始める。その奉仕を全て全うすることができたら、私たちは天に召されていく。

そのような流れがぼんやりと浮かび上がってきた。これは人生の発達プロセスの本質を表しているように思える。

天からの促し、出発、奉仕、天に召されていくこと。それら一連の流れの中に今の自分がいるということをありありと感じることができる。

この先自分がこの世界のどこで何をして生活をしているのか定かではないが、仮にそうであったとしても、天命にまつわる一連の流れの中で生き続けていることだけは確かだろう。それが一人の人間が真にこの世界で生きることの意味なのだと思う。フローニンゲン:2018/9/6(木)09:30 

過去の曲の音源の保存先はこちらより(Youtube)

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