書斎の窓を少しばかり開け、早朝の新鮮な空気を取り入れていたが、いかんせん寒くなってきたので今窓を閉めた。今朝は小鳥の鳴き声が聞こえない。
小鳥たちはどこに行ってしまったのだろうか。今日はどこか別のところで休憩をしているのだろうか。
以前の日記で書き留めていたように、欧州での生活を始めて以降、頻繁に幼少期の頃のことを思い出す。昨夜の就寝前には、小学校二年生の春に東京から山口に引っ越した時のことを思い出していた。
最寄りの新幹線の到着駅から新たな生活拠点のある駅に向かうまでの列車の風景を今でも鮮明に覚えている。東京とはまるっきり異なる別世界が私の眼の前に開かれていて、私は言葉を発することもなく、その景色をただただ眺めていた。
ある意味、その時の私は別世界への畏怖の念のようなものに包まれていたのだと思う。今まで自分が見てきた世界とはまったく違う世界がこの世には存在するということを知った原体験だったと言えるかもしれない。
山口に到着したその日は町の旅館に泊まった。その旅館は海から近く、私はその時に始めて瀬戸内海を間近で眺め、そこで潮風を感じ、瀬戸内海に初めて触れた。
記憶の糸がするりするりと進んでいき、これから生活をする社宅に初めて到着した日のことも覚えている。それは旅館に宿泊した翌日のことだったように思う。
そこで家族三人でリビングを雑巾掛けしたことを鮮明に覚えている。町の旅館に宿泊した日も、社宅に到着した日も、小雨が降りしきるような日だったように思う。
なぜだかわからないが、自宅のリビングを家族三人で雑巾掛けすることは楽しかった。ベッドの上で仰向けになり、目を閉じながら当時の光景をあれこれと思い出している自分がいた。
昨日の夜にもう一つ思い出していたことがある。夕食を摂っている最中に、ふと今の自分が意識の形而上学を含めて、神秘主義的な何かを探究することに向かっている傾向があるのは、実は幼少期の頃からそうした傾向があったのではないかという考えが浮かんだ。
今でも一つ印象に残っているのは、中学一年生の時に、社会の授業の最中に、資料集をパラパラと眺めていると、イスラム神秘主義のスーフィズムに関する写真入りの解説を見つけ、それに釘付けになっている自分がいたことだ。
そこに掲載されていた写真は、「回転舞踊」とでも訳せるであろうスーフィズムの伝統的実践であるズィクルの様子を写していた。その写真を眺めた時に、「なんだこれは?」という素朴な好奇心が湧き上がっていた。
ズィクルというのは、ひたすらに回転運動を行い、意識を変容させ、神的な存在とのつながりを感じるための実践技法である。当時の資料集にどこまで踏み込んだ解説があったのか定かではないが、この回転舞踊には何か自分の知らない秘密が隠されているに違いない、と当時の私は思っていた。
神秘主義的なものに関心を持つ傾向についてはおそらく、より幼少期の頃からあったのだと思うが、上記のズィクルに関するエピソードは、自分が神秘主義的なものに関心を示していたのは随分と前からのことなのだという確定的な証拠のように思える。
そこからしばらくは神秘主義的なものへの明示的な関心は鳴りを潜め、そこから十数年の時を経てその関心が再び再燃し、私は米国へと留学をした。そしてオランダにいる今もなお、あるいは改めてよりいっそう、神秘主義的なものをより深く探究していきたいという思いに駆られている。
シュタイナー教育や霊性教育へ強い関心を示しているのはまさにその表れだろう。自分の関心事項に関する一連の流れと幼少時代のエピソードとの関係性についてぼんやりと考えていた。
街路樹の葉が静かに揺れている。
一つの究極的な関心事項とそこから派生する様々な関心事項。ライフサイクルの進行に応じて、派生した関心事項と向き合いながら究極的な関心事項に向かって歩みを進めていることを知る。フローニンゲン:2018/8/15(水)08:25
No.1232: Behind a Purple Curtain Lace
It is almost 4 p.m.
I’ll start to read books again, looking at a swinging purple curtain lace inside my heart. Groningen, 15:58, Monday, 9/17/2018