
先ほど今日一日分のコーヒーを入れた。書斎の中にはコーヒーの香りが漂っている。
外は相変わらずの曇り空だが、まだ雨は降っていない。空を覆う雲はとても薄く、雨を降らせるような雲には思えないが、今着実に雨雲がこちらに向かっているのかもしれない。
目の前の現象だけを見て思考を働かせるのではなく、目には見えない現象をもとに思考を働かせる必要がある。具体的操作段階を超えて、形式操作段階に到達したらそうした思考能力が獲得されるのであるから、それを十分に発揮しよう。
コーヒーを入れている最中にふと、日記の執筆にせよ、作曲にせよ、それらが日々の自然な行為になっていることについて改めて考えていた。日記を執筆することも作曲をすることも、私にとっては特別な行為ではない。
むしろそれは自然な生理現象のようなものであると言っても過言ではない。ただし、私が考えていたのは、それでは日記の執筆や作曲はどこまで自然な生理現象に近いのか、そしてどのような点に違いがあるのかということだった。
人は毎日日記を執筆することや毎日曲を作ることに驚くかもしれないが、そうした場合には創造活動というものを何か特別なものと思い込んでしまっている可能性がある。そうした思い込みに対しては、創造活動は日々の排泄行為と同じぐらいに自然な現象である、と説明してみるのがいいかもしれない。
ただし、創造活動に従事する衝動が生理現象と同じような衝動に基づくものであったとしても、生み出されるものについてはその違いを考えてみる必要があるだろう。言うまでもなく、創造活動によって生み出された創造物と生理現象によって生み出された排泄物との間には違いがある。
諸々の違いがあるが、端的には価値の観点を含めての質的な違いがそこにある。排泄物にはその人が一生涯にわたって積み重ねてきたものが滲み出さないが、創造活動を通じて生み出されたものにはそれが滲み出す。
人は本来創造的な生き物であり、現代人はその創造性をあまりに抑圧しており、創造活動というものをどこか高尚な営みだと錯覚している。そうした思い込みに対しては、処方箋として、創造活動そのものは排泄行為と変わらない自然なものだという認識を持つのが良いのではないかと思う。
創造活動への敷居が下がり、日々創造活動に従事する中で充実した毎日を送り、そこから少しずつ創造活動によって生み出されるものが固有に持つ性質について考えを深めていけばいいのではないかと思う。
人は本当に創造活動というものを何か特別なものとみなしがちである。そうした思い込みを保持したままでいると、創造活動を通じた各人固有の芸術性と霊性が涵養されることはないだろう。
時に、毎日日記を執筆していることや毎日作曲をしていることに対して驚かれることがあるが、むしろ毎日排泄行為を抑圧していることの方が驚くべきことなのではないかと思う。繰り返しになるが、創造活動によって生み出される創造物と生理現象から生み出される排泄物には違いがある。それについては理解をしなければならないし、これは美学の観点からも考えを深めていきたいと思う。
ここで述べているのは、人々が創造活動というものを特別なものだと崇めてしまう誤解についてである。そうした誤解が広く蔓延していることが、芸術性や霊性、及び成人の発達を大きく妨げる要因になっているように思えて仕方ない。フローニンゲン:2018/8/13(月)09:24
No.1225: Purple Inner Flame
I perceived my inner flame to be purple.
I seemed to find a new quality of my passion. Groningen, 20:17, Saturday, 9/15/2018