top of page

2976. 一億文字と10万曲に向けて


昨夜就寝前に、改めて自分が生涯に生み出すことのできる文字の量と曲の量についてぼんやりと考えていた。一人の人間の一生は有限であり、そうであるがゆえに自分が創造できるものも有限であるという当たり前のことを再度考えていた。

習慣の力とは凄まじいものがあり、この二年間で書き留めてきた日記は300万字を超える量になっており、ほぼ毎月単行本一冊を執筆するような分量の日記を書いてきたことになる。

欧州での生活を始めた当初においては、日記を書く意義についておぼろげながらもわかっていたが、まだその本当の意義については気づいいてなかった。そうしたこともあり、欧州での生活の初期における日記の量は少なかったが、それでもこうした膨大な量の文章を書き留めてきたことに驚きを隠せない。

一方で、そうした分量を冷静に眺めてみると、やはりまだ何も文章を書いていないという気持ちにもなる。端的には量が圧倒的に欠落しているのだ。

毎日日記を書くということを生涯にわたって続けていきたい。一億文字というのはあまり想像できないような量だが、冷静に計算してみると、後70年間今のようなペースで日記を執筆していくとそこに達する。

実際には67年かそこからだろう。人間は人生の日々を綴った日記を一億文字書いたらどのような認識世界に至り、日々はどのような景色として知覚されるのか。

そこには何も待っていないのかもしれないが、一億文字に辿り着いた時に広がる認識世界に異常な関心がある。また、一億文字のその先の世界にも強く惹かれるものがある。

作曲に関しても少しばかり考えていた。現在、諸々の仕事を抱えながらも、毎日三曲ほどの曲を何気なく作っている。これは本当に何気なくである。

何か他の仕事を終えたら、知らず知らず曲を作ろうとする自分がいる。それはとても自発的な運動であり、自然な運動だ。

曲を作ろうという意思が芽生えるのは、その運動が始まってからの話だ。作曲に向かわせようとする力が自分にまず働き、それを受けて作曲をしようという意図が芽生える。これは日記についても同じである。

日記も書こうと思って書いているわけでは決してない。気がつくと文章の前に自分がいて、文章の世界の中に自分がいるだけだ。

日記も作曲も、意思が働くその前の力によって裏打ちされる形でなされる営みとなった。だからこそ、日記を執筆することや作曲することが日々の生活そのものに他ならず、自分の人生そのものに他ならないと言えるのだろう。

日記と作曲は自分の日々になり、自分の人生になったのだ。それを実感する。

日記の執筆が一億文字に向かっていく形で進められていくのに対し、作曲については本当にごくわずかの曲しか生涯に作れないことを知る。仮に無理のない形で今のように毎日三曲作ったとしても、100歳を迎える頃には、およそ75000曲しか作れないことを知る。

私は作曲を仕事にする人間ではないし、作曲に望むのは自分の内側の感覚が求める形をそれに与えることであるから、芸術性の追求などということはほとんど考えていない。ここでも膨大な量の内的感覚を外側に形として生み出した時、人はいかような内的感覚を持ち、いかように外的世界を捉えうるのかという点だけに関心があると言っても過言ではない。

そうしたことを実現させるためには、文章を書くように曲を書けるようになっていく必要がある。そうすれば、生涯においてなんとか10万曲ほどの曲が生み出せるかもしれないという希望が見えてくる。

自分に与えられた奇妙な役割は、一億文字の日記を書き、10万曲の曲を作った後に開示される認識世界の光景を世に共有することにあるのかもしれない。

一切風が吹かない不動の世界が書斎の窓から見える。フローニンゲン:2018/8/13(月)09:00 

No.1224: Impulse to Learn

A strong impulse to desperately learn more suddenly occurred to me.

Just thinking about arts and spiritual education, my desire to learn more almost starts to explode. Groningen, 18:24, Saturday, 9/15/2018

過去の曲の音源の保存先はこちらより(Youtube)

過去の曲の楽譜と音源の保存先はこちらより(MuseScore)

bottom of page