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2972. “doting”的特性の遺伝と時の最果て


「カタカタ」と音がしたので、音が聞こえた窓の方を見てみると、なんと小鳥が窓の外からこちらをひょっこりと眺めているではないか。それを見た瞬間に、全てのことはどうでもよくなり、そっと窓際に近寄った。

丸く小さい小鳥の背中がとても愛らしい。これからじっくりとその姿を眺めようと思ったら、自分の存在に小鳥が気づいたためか、瞬く間に飛び去ってしまった。その瞬間、私は思わず「あっ!」と口にし、小鳥が逃げてしまったことを残念に思った。

昨日、GREに向けて単語の学習をしている時に、“doting”という見慣れない単語に出会った。これは“adoring”と同義であり、「溺愛する」というような日本語訳を当てることができると思う。

いつも小鳥を眺めている時に、自分の表情が柔らかくなり、思わず笑みを漏らしていることに気づく。これは小鳥のみならず、犬や赤ちゃんを見る時にも同じである。

また、一昨日に近所のチーズ屋に訪れた際にも気づいたが、道中で見つけたアジサイにも同じような恍惚的な表情でそれを眺めている自分がいた。愛らしい存在に恍惚的な表情を思わず浮かべてしまうこと。それはもしかしたら遺伝によるものかもしれないとふと考えた。

私の実家には小さなトイプードルがいて、彼はとても愛らしい。人間の年齢ではすでにおじいさんだが、その可愛らしさは変わらない。

両親も相当溺愛をしているが、中でも父の溺愛ぶりは相当なものがある。私は父が愛犬に対してみせる表情を絶えず観察し、父のいないところで、父の顔真似を母に見せて母を笑わせる。

「口に大福を頬張ったような丸みのある恍惚的な表情」と言えば伝わりやすいだろうか。そんな表情をする父の顔真似をしている自分も、実は同じような表情でこの世界の愛らしい生き物を眺めていることに気づいたのである。

小鳥、犬、赤ちゃん、植物など。この間は一匹のてんとう虫に愛らしさを感じた。

愛すべき生命を愛でる気持ち。それは父から受け継いだものなのかもしれない。

気がつけば時刻は午前九時を迎えようとしている。今日も静かな日曜日だ。

毎日が時の最果てにいるような感覚の中で過ぎていく。そこでの時の濃度は極度に高く、また時間が純化されている。

一秒は即永遠であり、永遠は即一秒になる。そんな環境の中で私は毎日を過ごしている。

時間が流れているのか流れていないのかさえわからないような場所で私は毎日を生きている。それがこれから後丸々一年続く。

フローニンゲンが自らの人生に授けてくれた恩恵についてより考えていかなければならない。このような形で自らの日々を形作れるとは想像してもいなかった。

人は時の中で時を超え、時を超えて時の中で生きることが可能なのだ。時の最果てでの一日がこれからまた本格的に始まろうとしている。それはすでに始まっていたとも言えるし、それは決して始まりようのないものだと言える。

時間の本質に触れながら生きている人であれば、この言葉に共感してくれるだろうし、その意味がすぐにわかるはずだ。フローニンゲン:2018/8/12(日)09:05 

No.1222: A Kingdom of Honeybees

I eat yogurt with honey every morning.

When I go for a walk and see beautiful flowers and bees around them, I notice that I’m always indebted to their existence. Groningen, 10:24, Friday, 9/14/2018

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