冷たい思考の蔓延。多くの成人の思考を見ていて一つ思うのはその点についてである。人間が発達を遂げていくというのは、確かに思考がより洗練されていくということを一つの特徴に持つが、多くの誤解は、思考だけが洗練されていくと捉えられていることだ。
重要なことは、思考にはそもそも感情や感覚が不可避に内包されており、思考が真に育まれるというのは感情や感覚も豊かに育まれていくということだ。この点について、思考だけを切り離してしまう論調があまりに多いように思えて仕方ない。
結局のところ、本来思考に内包されるはずの感情や感覚を切り離した形で思考を鍛錬していくと、そこに残るのは冷たい思考だけとなる。しかもそこには思考をより育んでいくための土台となる感情と感覚が欠落しているのであるから、それ以上思考が深く育まれることはないという事態を招くだろう。
「思考を鍛錬する」という掛け声のもとに、一体人々は何を鍛錬しているのだろうか。冷たい思考を鍛錬して一体何になるというのだろうか。そうした愚挙に人生の貴重な時間を捧げるのをそろそろやめるつもりはないのだろうか。
外は相変わらず寒く、部屋の温度も低い。もう窓は開けていられない。まだ八月も第二週目だというのに。
この分だと再来週から始まる北欧旅行の時は随分と寒くなっているだろうから、体調を含め、諸々のことに気をつけて旅に出かけていく必要があるだろう。
再び教育について考えていた。今度は少しばかり子供の教育について考えていた。
本来教育は、偏差値の高い大学に入学するためや給料の良い仕事に就くためにあるわけではない。教育というのは充実した生を送るためにあるはずだ。
しかし現代社会には、充実した生を営むためには給料の良い仕事に就くことが求められ、給料の良い仕事に就くためには偏差値の高い大学に入る必要があるという短絡的な物語が蔓延している。この物語に盲目な人が多すぎるように思うのは私だけだろうか。
確かに統計的には、給料の高い仕事に就くためには偏差値の高い大学を卒業していることが関係しているかもしれない。しかしそもそもの前提条件として、充実した生を営むためには給料の良い仕事に就くことが本当に求められているのかを問わなければならない。
ここでも確かに、現代社会で生きて行くためにはカネは必要である。しかし、カネは生の充実に先行するものではなく、あくまでも充実した生を支えるものでしかない。
金銭を獲得することだけに躍起になることを促す現代社会の物語を問う必要があるのではないだろうか。そうした物語に絡め取られたままではますます生の充実感は薄れていく。
究極的には、人は社会がすでに生み出した仕事に就く必要など全くないのではないかと思う。自分自身を振り返ってみると、社会がこしらえた仕事に就くことは25歳の時にやめた。
そこからは自らで自分の仕事を創造することにした。今はその仕事に従事しており、それは一生涯を通じたライフワークとなっている。
自分自身の生き方を振り返ってみると、やはり現代社会で蔓延している物語とは別種の世界があることを知る。そこにあるのもまた別の物語だと言えるかもしれないが、自らで仕事を生み出し、それに従事する形で生を充実させていくという物語は現代社会に蔓延する不幸な物語に取って代わるもののように思える。
ここでも、自らの仕事を自分で創造するような教育が施されていないことは既存の教育の大きな問題ではないかと思う。人は創造を通じて学んでいくという学びの根幹が欠落した教育を受けていても仕方ないし、そうした教育を施していてはならないのではないかと思う。
創造が欠如し、従順と調教しかない現代の教育は果たして教育と呼べるものなのだろうか。フローニンゲン:2018/8/12(日)08:45
No.1221: The Ubiquitous Morning Sun
I like seeing both the morning sun and a city that the sun sheds light on.
All living creatures largely depend on the sun, but “whom” does the sun rely on?
Perhaps, the sun is not alone, but instead, it connects with everything in the entire universe as we do. Groningen, 09:00, Friday, 9/14/2018