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2968. 役割と才能:善意な盲目の実践者


時刻は午後の九時半を迎えた。今日もこの時間帯に一日の最後の日記を書き記している。

この時間帯のフローニンゲンの空はもう随分と暗くなっている。西の空にかろうじて太陽の姿がかすかに見える。

この世界の輝き。今日は本当に世界が輝いて見えた。

この世界の輝きを知ってほしい。結局自分が伝えたいのはそのことだけなのかもしれない。

その他に伝えるべきことなどあるだろうか。一人一人の人間の輝き、生命の輝き。そして空や太陽の輝き。風だって空気だって輝いている。

いつも批判の対象は盲目な現代人だ。盲目な夢遊病者の現代人を目覚めさせるに十分な光など存在するのだろうか。

今日も雑多なことをあれこれと考えていた。日々は雑念で満たされているが、そうした雑念に光を当てていくことが一つの思想に到達していくためには必要なのかもしれない。

午後にふと考えていたのは、自分に与えられた役割は、標準化されえぬ固有の生き方があるということを示すことなのかもしれない、ということだった。生き方さえも標準化されていくこの現代社会に徹底的に抗していく。

それもまた自分に課せられた大切な役割だ。一人の人間の生き方は決して標準化されえぬものなのだから。

確かに、自分が得た学びをこの世界への関与として還元していくことは大切だ。しかし果たしてそれが自分に課せられた使命なのかというと、どうもそうではないように思えてくる。

確かにそれは行う。しかしそれ以上に重要なのは、私たちの生は一つの固有なものであるということを示すことだ。

日々を生きる中で毎日それを示していく。叡智が実践に活用されるというのは、究極的には自らの生に固有な輝きを与えていくことなのではないかと思われる。

夕方、一人一人の才能が育まれていくことを巧妙に妨げる集合的な思想と仕組みに対してなんとかならないものかと考えていた。これは自分の中で大きな問題意識として持っているものだ。

世の中で普及する「多様性の尊重」という言葉は偽言である。なぜなら、その言葉で指し示されている多様性というのは、結局既存の社会構造で認識されうる限定的なものでしかないのだから。

一人一人の才能というのは、本質的にはその人にしか定義できないものなのではないだろうか。他者や社会が才能というものを定義しようとするから画一化するのである。

才能を測定するという馬鹿げだ暴挙もやめたほうがいい。対象を測定しようとした瞬間にそれは対象を限定化し、測定から漏れてしまうものを結局人は認識できないのだから。

仮にそうした測定が社会規模で活用されるようになったら悲劇しかもたらさないだろう。測定する者もされる者も、ほとんど全ての人は測定に伴う本質的な限界を明確に認識していないのだから。

才能を評価しようとする善意の実践者、才能を育もうとする善意の実践者は、自らの発想や実践がそもそもどのような観点や物語に立脚しているのかに気づけないでいる。これもある種の盲目的な症状である。

結局一人一人の人間の才能が真に開花されないのは、善意な盲目の実践者がこの社会に溢れているからなのではないかと思えて仕方ない。

時刻は夜の十時に近づいてきた。そろそろ就寝する時間だ。

世界が闇に覆われたとしても、自分は必ず眼を見開き続けていこうと思う。フローニンゲン:2018/8/11(土)21:58

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