時刻は午後の六時を迎えた。今日は読書を旺盛に進めることができた。まるで乾いた土が水を吸収するように書物を読み進めていた。
早朝に紐解いた、クリシュナムルティの書籍“Krishnamurti to Himself: His Last Journal (1993)”を昼食後に読み終えた。本書から得たことは多く、その一つ一つをここでは取り上げない。
ただし、一つだけ書き留めておくならば、クリシュナムルティが指摘するように、この現代社会の日常は数かぎりない「測定」に満ち溢れており、その問題が深刻化しているということだ。
厳密には、無数の測定が存在していることそのものには問題ない。ここで述べている測定とは、美醜、金銭価値、能力の多寡など、様々な測定のことを指す。
私たちは日常生活を送る中で、知らず知らずのうちに、諸々の測定的判断を行っている。それは量的にも質的にもである。
これまでの日記で言及しているように、現代社会の測定はどうしても量的な評価に偏りがちである。これは大きな問題の一つであることは何度も述べているように思う。
今回クリシュナムルティの書籍を読みながら考えていたことは、現代社会が私たちに促す諸々の測定的判断は非常に限定的なものであり、それが歪められてしまっていることに問題があるのではないかということだった。
学校教育の現場や企業社会における測定的判断について考えてみると、それがいかに限定的なものであり、歪曲されたものであるかがわかるだろう。一例として挙げるならば、学校教育においては非常に限定的な評価尺度が導入されていることにより、子供たちが本来持つ多様な能力が存在しないものとして扱われ、一人一人に固有の能力を真に育む機会を喪失しているという現状である。
これは企業社会における人材評価にも等しく当てはまる。アセスメントというのは確かに対象とする能力を可視化してくれるという利点を持つ。だが逆に考えれば、それは対象とする能力しか明らかにしてくれないのである。
この単純な点を理解している人は非常に少ないのではないかと最近思う。それよりもむしろ、この単純な点に気付かせないような巧妙な思想操作が大規模でなされているようにさえ思えてくる。
例えば、IQなどという単一的な基準を持って人間を包括的に評価することなど本来できないはずなのだが、IQという概念がひとたび社会に普及し始めると、それによる評価が絶対的なものとなり、IQの数値があたかもその人の全人格的な評価だと錯覚してしまう風潮がかつて蔓延していた。
実態としては、今もその風潮は変わらず、IQが学歴や年収という評価尺度に置き換わっているだけである。非常に浅薄な評価文化は日本だけに蔓延しているのではなく、欧米社会でもその状況はほとんど変わらないだろう。
再度要約すると、クリシュナムルティの書籍を読みながら考えさせられていたのは、私たちは日常生活のあらゆるところで様々な評価的判断を行っており、それはこの社会で生きていく上で不可避だが、評価的判断を下す基準の本質について盲目的であったり、そうした基準そのものが社会という大きな物語の中で巧妙に構築されているということに気づけないことが問題なのではないか、ということだった。
結局この点も、現代人は「盲目的な夢遊病者」であるという問題意識に帰着してくる。昨夜も就寝前にベッドの上でこの問題意識と向き合っていた。
現代人は社会によって構築された様々の事柄に対して盲目であり、表面的に美しい夢を見ながら踊らされている夢遊病者であるということが、とても深刻な問題のように思えてくる。この問題に向けた取り組みを日夜模索する日々を今後も送っていくだろう。フローニンゲン:2018/8/3(金)18:24
No.1199: The Sun between the Clouds
The clouds sporadically appeared and disappeared today.
I’m recollecting the warmth and brightness of the sun that broke through the clouds. Groningen, 17:25, Saturday, 9/8/2018