今日はとても涼しい。爽やかな風が、開けた窓から書斎の中に流れ込んでくる。こうした涼しい夏こそがフローニンゲンの夏だと改めて思う。
白く薄い雲が空に散りばめられている。空の広大さをぼんやりと眺めていると、心がますます穏やかなものになっていく。
静かさと華やかさのある生活。生活それ自体は極めて質素なのだが、その質素さが華やかさを生み出しているように思える。
日常に目にする物事が華やいで見え、心の中に何とも言えない輝きがもたらされる。日々私はこの街でそのような輝きに包まれる形で生きている。
今朝起床した時、自分がとても長い夏休みの中にいる感覚があった。開かれた窓から流れ込んできた早朝の冷たい風、そして辺りの香りが夏休みのような感覚を引き起こしたのである。日々が夏の祝祭のようである。そんなことを思っていた。
起床時に自分の両手を確認すると、手荒れが完治の方向に着実に向かっていることに気づいた。以前立てた仮説をもとに色々と実験をした結果、それが良い方向に作用したようだ。
それらの要点は極めてシンプルなものであり、肌に刺激を与えることを極力減らすために、洗剤を薄めたり、手を洗うことを極力控えたり、料理を控えることであった。さらには保湿をしっかりすることもポイントであった。
そうしたことに気をつけていると、秋の足音が聞こえてきそうな今になってようやく手荒れが回復に向かっていくことになった。確かに回復までに時間がかかったが、確実に完治の一歩手前まで来ている様子を見ると、これまで手荒れによって不便をしていたので大変嬉しく思う。これから徐々に秋に向かっていくが、秋以降はなお一層手荒れには気をつけたいと思う。
今朝はバッハの二声のコラールに範を求めて一曲ほど作った。昼食後に協働プロジェクトに関するオンラインミーティングがあり、それが終わったら大学の図書館に行き、契約関係の書類を印刷したいと思う。
その後自宅に戻ってきたら、再び作曲実践に取り掛かる。午後からの作曲はモーツァルトの曲を参考にし、時間が許せばテレマンの曲にも範を求めて一曲作りたい。
昨日バッハの曲を参考にしていた際に、音楽の理解可能性について考えさせられた。単なる混沌とした音符の羅列には人々は音楽を見出せないことは言うまでもないかもしれないが、それではいかにすれば音符の羅列を美しく響かせることができるのか、という作曲の原点に回帰するような問いと向き合っていた。
そこにはもちろん、一貫性と多様性を曲に持たせることが鍵になってくるのだが、その塩梅がやはり難しい。参考にしていたバッハの曲はそのあたりが卓越の境地にあり、そうした境地に向かっていくためには何が必要なのかを考えていた。
自分の内側の感覚をあるべき形で外側に表現していく際に、それが常に美しいものになるとは限らないことは確かである。それは重々承知しているのだが、それすらも美的な要素を含むように曲として表現するにはどうしたら良いかを模索していこうと思う。
午後からの作曲実践は、その実現に向けた極めて小さな一歩かもしれないが、その一歩がなければ一生かかってもその境地には辿り着けない。とにかくゆっくりと歩き続けること。
毎日、絶えず曲を作り続けていくこと。自分の生は日記を書くことと曲を作ることと不可分かつ同一のものであるということをもう一度思い出し、日記と作曲を通じて今日も生きて行く。フローニンゲン:2018/8/1(水)12:05
No.1189: Shimmer of a Quiet Morning
I got up at 6AM, and the outside was dark.
It is 7AM now, and I can see a shimmer of the quiet morning. Groningen, 07:15, Thursday, 9/6/2018