時刻は七時半を迎え、一日も終わりに向かっている。それにしても今日は夏らしさを感じさせる暑い一日だった。これから夜にかけて気温が下がっていき、明日は今日よりも幾分涼しいようだ。
一日の仕事がすべて終わったため、これから再び作曲実践をしたいと思う。まずは再びバッハに範を求め、時間が許せば久しぶりにバルトークに範を求める。
二人の作曲家が残した比較的短い曲を参考にしていく。どのような作曲家でもそうだが、とにかく私はまだ短い曲から学びを得ていく必要がある。それを積み重ねる中で徐々に長い曲を参考にするに足る筋力が培われていき、自らも長い曲を作ることができるようになっていくだろう。
決して長い曲を作ることが目的なのではなく、内側で形を求めるものが仮に長い形を求めた場合に今の私はどうすることもできないため、その時に備えて長い曲を作れるようにしていく。逆に言えば、私の中にはまだ大きな形となって外側に出てこようとするものがないのかもしれないし、それが眠ったままになっていると言えるかもしれない。
それらの目覚めはしかるべき時にやってくるだろう。その時に、それを適切な量と適切な形で外側に表出できるようにしたい。今はそこに向かう過程におり、無数の小さな曲に範を求め、無数の小さな曲を作っていく。
夕食前に辻邦生先生の日記を読み返していた。その中で、芸術についての話が印象に残っており、私は辻先生の意見に同意していた。
仮に今後自分が生み出すものに誰かが意見を述べたり、批評をしたりしてもそれを一切気にかける必要などない。私はいつも形を待つものに形を与え続けているだけなのだから、それを通じて生まれたものを他人がとやかく言うことに耳を傾ける必要などない。
大切なのは、絶えず形にしていくこと。造形運動を絶えず続け、形を生み出すことの中に生き続けること。その中に何者にも代えがたい充実感がある。
意見や批評を述べたがる人にはそうしたことを述べさせていたらいい。往々にしてそうした人たちは自ら創造活動の中で生きようとせず、創造の波の外側に生きているのだ。
そうした人たちは創造の波に身を委ねて生きる人たちを羨望の眼差しで眺める。その眼差しが自己の影の側面に影響を受け、自らのシャドーを投影するかのように他人が創造したものにあれこれと口を出したがる。
私は間違ってもそのようなことをしないように気をつけたいと思う。創造の波の外で生きることはもう御免である。
創造の波に身を委ね、絶えず創造をしていくことの中に生の本質的な喜びがある。生の本質は絶え間ない創造であることを忘れてはならない。
とにかく作りに作ること。他者の声が聞こえそうになったら、ありとあらゆる手段を投じてその声を遮断すること。極端な話、僻地で生活をすることや月で生活することを考えなければならない。
そうまでして絶えず作り続けていくこと。作ったものを振り返る暇もないぐらいに絶えず生み出していくこと。
ルネッサンス時代の巨匠の幾人かはそのような創造の激流の中で生きていたのを知っている。彼らを取り上げるまでもなく、どの領域における偉大な創造者たちは皆そのように生きていた。
絶えず作ること。作りに作ること。それをもう一度ここで誓いたい。フローニンゲン:2018/7/24(火)19:48
No.1163: Farewell to Stockholm
Coming to a city implicitly means that we will inevitably leave the land sometime.
I suppose that visiting Stockholm has some meanings for me, and I’ll continue my life from here.
Even if I leave this city, what I obtained during my stay will never weather. Stockholm, 07:23, Wednesday, 8/29/2018