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2868. 伴走者・伴奏者としての日記


時刻は午前八時に近づきつつある。まだ日記を書き足りないようなのでもう少し文章を書き留めておく。

実際には、私はいついかなる時も文章を書くことが足りていない。常に自分は文章を書くことに劣後していると思う。

もはや筆不精を嘆いても仕方ないのだが、もっと文章を書き留めることが本来できるはずだと思ってしまう。小学校二年生の時に経験した、自己が爆発してひたすらに日記を書いていたあの日のことを思い出す。

自分が書くもっとも重要な文章は日記であり、その他の形式の文章は日記に劣る。それはもちろん自分にとっての意味においてである。

自分の人生を深めていくためには兎にも角にも日記を執筆し続けることが大切になる。その他の形式の文章は結局のところ偽善的なものに過ぎない。

仮に日記が独善的なものとして捉えられたとしても、私は偽善的な他の形式の文章を書くことはできない。もうそんなことに人生の時間を費やすことはできない。その代わりに日記だけを書き続けていく。

死ぬまで日記を書き続けようという気持ち。五月末にアムステルダムに向かっている最中に、列車が停止し、近くの駅で降ろされた。その時にも私は日記を書いていた。

いついかなる時も日記を書き続けていくこと。それを自らに課す。その理由は単純明快で、いついかなる時も私は私として生きているからだ。

自分という一人の小さな人間が一つ一つの瞬間を懸命に生きていたということ。それを書き残しておく。

それを自分は引き受けた。他の人がやらない方法と量でそれをやることを引き受けたのである。

日記としての文章を書くことは本当に心を落ち着けてくれる。時にそれは心を奮い立たせることもあるが、結局文章を書いた後に待っているのは常に平静である。

文章を書くことの意義は平静さの獲得にあるのかもしれない。人生そのものは絶えず平静だ。だが、私たちは自己の認識によって諸々の解釈を人生の一つ一つの出来事に対して行う。

それは往々にして頭の中で行われ、ゆえに混沌としたものになっていく。そうした混沌を落ち着かせる働きを持つのが文章の執筆ではないかと思う。

それはこの欧州での二年間の経験から確信を持って言える。この二年間、仮に日記の執筆がなかったならば自己はどのようになっていたのだろうか、と考えると恐ろしい気持ちになる。

精神生活は混沌としたものになり、その混沌から抜け出せなかったのではないかと思う。とりわけ欧州でのこの二年間は諸々の意味で厳しいものであった。

確かに当地の冬は厳しいが、ここで述べている厳しさとは精神的な次元のものである。精神的な厳しさと向き合い、絶えずそれと折り合いをつけながら歩んでいくために日記を執筆することが必要であった。

日記が絶えず自分の人生と伴走してくれていたのである。日記の伴走がなければ、私はここまで歩みを進めてこれたかどうかはとても怪しい。

これからも日記を執筆し続けていきたいと思う。それが自らの歩みを進めていく唯一の手段である。

日記は自分の人生と伴走してくれるだけではなく、人生を共に奏でてくれるという意味でそれは「伴奏」であるとも言える。日記は私にとっての伴走者であり、伴奏者だったのだ。その存在があるから私は独りではないと確信を持って言える。フローニンゲン:2018/7/20(金)08:14

No.1149: Aftertaste of Stillness

The time to leave for Sweden is now approaching.

When I come back to Groningen, summer will have ended.

I notice that the aftertaste of stillness is embracing me. Stockholm, 07:44, Saturday, 8/25/2018

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