早朝の作曲実践を先ほど終えた。今日はここ数日間と同様に、バッハのコラールに範を求めた。
現在はまだ二声のコラールを参考にして曲を作っている段階であり、楽譜に収められた69曲の全てを参考にした後は、371曲ほどの四声の曲を参考にしていく。一日の始まりの作曲実践と一日の終わりの作曲実践はバッハのコラールを参考にしており、一日二曲ほどバッハから範を求めていることになる。
仮にこれを今後毎日続けたとしたら、二声のコラールについては残り50曲であるから25日ほど時間を要し、371曲の四声の曲については半年ほどの時間を要するだろう。いくら時間がかかろうともこれを成し遂げていく。
そう思わせてくれたのは、バッハの曲に範を求めている時の自分の内側の感覚である。より正確には、バッハの曲に範を求め、出来上がった曲を聴いてみると、それは外見上は極めてシンプルで時間も短いものなのだが、何か大切なものが梱包されているように感じるのである。
こうした感覚を一番強く引き起こしてくれるのがバッハの曲であり、それと同等のものを引き起こしてくれるのがテレマンの曲だ。後期バロック音楽を代表するこの二人の作曲家の曲は、自分の内側にある何か大切なものを喚起してくれる。
今日は昼食前か昼食後にテレマンに範を求め、夜にはまたバッハに範を求めたい。時間の余裕を見て、今日はベートーヴェンにも範を求めるかもしれない。
今日は週も半ばを迎えた水曜日である。今、通りを歩く親子の姿を見た。父親が小さな男の子を肩車しながら歩いている。
今日は平日のはずなのだが、こうした光景は私の心をどこか和やかなものにしてくれる。オランダのワークライフバランスはとても優れているように思う。いや、多くのオランダ人にとってはライフしかないのではないかと思われることも度々ある。
おそらくそれが人間として真に生きる上で大切なことなのだと思う。そこにあるのは人生のみなのだ。
そもそもワークとライフが切り離される形で捉えられていることがおかしい。現代社会は二分法的な思考でワークとライフを捉えようとする。それら二つの乖離に人々は苦しむ。そのような構図が見えてくる。
オランダにやってきて、私の日々の生活は随分と変わった。それは肯定的な意味においてであり、人生の質がより豊穣なものになったことは間違いない。
おそらくそれが私をオランダに長らく留めている理由の一つだと思う。また、今後もまたオランダに戻ってきたいと思うのもそのためだろう。
今朝も改めて、今度はアムステルダムかロッテルダムに住みたいという思いが湧き上がっていた。いずれかの都市に住むことになったとしても郊外である。
オランダの郊外は本当に静かであり、平穏だ。深く静かな時間の中で毎日を送りたいと思う。
実はまだロッテルダムに足を運ぶ機会がなく、実際に自分の目でその街を確かめる必要がある。今年のどこかでロッテルダムに足を運びたいと思う。
来月末はGRE試験を受けた後、フィンランドに行く。フィンランド、ノルウェー、スウェーデンなどは今後の生活拠点の候補になっている。
また最近気になっているのはマルタ共和国だ。この国の気候は以前私が生活をしていた米国西海岸のアーバインに似ている。
確かにアーバインの方がより涼しいが、どちらも雨が少ないことは共通している。マルタ共和国は英語が公用語として使えることも私にとっては有り難い。
この冬はイタリアとエジプトに行くことをせず、マルタ共和国に少しばかり滞在してみるのも良いかもしれないと考えている。そうした空想に浸りながら、これから午前中の仕事を前に進めていく。フローニンゲン:2018/7/18(水)10:06
No.1140: Season of Farewell
Leaves of street trees in front of my house have started to turn red.
It is a sign of the end of summer and a harbinger of a new season.
My life continues to go in parallel with the flow of nature. Groningen, 10:52, Wednesday, 8/22/2018