つい先ほどルター教会で行われたオルガンコンサートから戻ってきた。幾分夢心地な感覚がまだ残っている。
午後三時から行われたコンサートの曲目はバロック時代の曲で構成されていた。いつもクラシック音楽のコンサートに参加して思うのは、毎回必ず何かしらの新しい発見があるということである。
今回も私は、一時間の演奏の間中ずっと目を閉じながら音楽に耳を傾けていた。それは多分に瞑想的であり、同時に様々な考えなどが浮かんでいた。
しかしコンサートの最後にはそうした考え事すらも消えてしまうような境地の中にいたように思う。演奏を聴きながら考えていたのは、芸術教育と霊性教育の密接なつながりに関してである。
それら両分野、そしてそれら二つを思想的に架橋するような試みに従事していこう、という気持ちを新たにした。自分がこれから進むべき方向はまさにそこにあると確信して疑わなかった。
その後私は、「音楽を理解するとはどういうことか?」ということについて少しばかり考えを巡らせていた。全く解答らしきものは出ていないのだが、その問いは本当に気になる。
「ある曲を理解できた」と思うような直感的な瞬間を経験したことのある人も少なくないはずである。その時、私たちの内側で一体どのようなことが起こっており、それはどのように説明できるのだろうか。
この問いへの解答は美学や認識論に関する理解が必要なのかもしれない。これは音楽のみならず、他の芸術にまで拡張できる問いであり、「芸術を理解するとはどういうことか?」という問いに形を変えることができる。この問いについても自分なりの解答を得られるようにこれから探究を進めていく。
一時間のコンサートはあっという間だったように思う。コンサート終了後、私は少しばかりその余韻に浸り、教会を離れようとしたところ、二人の夫妻から声をかけられた。
彼らの手元にはワイングラスがあり、「あそこでワインがもらえるから、ちょっと話でもどうか?」と声をかけられた。今回のコンサートは飲み物付きなのだということをその時に初めて知った。
コンサートが終わった時刻は午後の四時であり、時間としては早いが、二人の夫妻の勧めもあり、普段は飲まないアルコールをちょっとばかり楽しむことにした。
二人は隣町のアッセンから来たようであり、教会コンサートにはよく足を運ぶそうだ。「音楽学校に通っているの?」という質問を受けたが、フローニンゲン大学で心理学や教育学を専攻していると述べた。
「音楽学校には通っていないが、作曲することは好きです」ということを私が述べると、「これまでどんな楽器の演奏経験があるの?」と尋ねられた。私は楽器の演奏経験が一切ないことを伝えると、二人の夫妻はとても驚いた表情で、「それでどうやって作曲をしているの?」と尋ねてきた。
この問いかけが意外と忘れられず、確かに自分は楽器の演奏経験が一切ないにもかかわらずどうやって作曲をしているのだろうか、と改めて考えさせられた。私にとってみれば、それは多分に絵を描くことや文章を執筆すること、プログラミングのコードを書く感覚と同じであり、演奏経験の有無はほとんど問題にならないように感じていた。
とはいえ、一般的に作曲家は必ず何かしらの楽器の演奏経験があるものであり、それを考えると、私の作曲方法と出来上がる曲には特殊なものがあるのかもしれない。今のところ楽器を演奏することは全く考えておらず、とにかく曲を作ることだけが楽しい。
今後もそれを突き詰めていく中で特殊な作曲方法や特殊な曲が生まれてくるかもしれない。今日のコンサートでの体験についてはまた改めて文章を書き留めておこうと思う。フローニンゲン:2018/7/15(日)17:25