
時刻は夕方の四時を迎えた。先ほど雲間から太陽の光が差し込む瞬間があったが、今はまた空が雲に覆われてしまっている。
小鳥の鳴き声と通りを走る車の音が聞こえて来る。今日は午前中に、サティに範を求めて一曲作り、先ほどはモーツァルトに範を求めて一曲作った。
サティの曲を参考にしている最中にいつも思うのは、彼の音楽世界が持つ独特の神秘性・幻想性である。不思議な心地を引き起こす妙な曲がいくつもある。
一体どのような方法でそのような質感を持つ曲を生み出しているのか大いに気になり、いつも好奇心を持ってサティの曲の楽譜を眺めている。午前中に作った曲に関しては、「あるがままに生まれた曲」と述べてもいいかもしれない。
実際には、いつもそのような形で曲が生まれていると言えなくもない。未だ音楽理論や作曲理論に対して明るくないため、緻密に考えようと思っても考えるための具材がなく、結果として多くは直感的に音を置いていくという手段に頼らざるをえない。
これが功を奏する時もあればそうでない時もある。このような形で生まれてくる曲を「あるがままに生まれた曲」と仮に命名しておく。
サティの音楽世界が持つより深い神秘性について理解を深めたいと思う。サティの手紙が収められた書籍を以前に購入し、すでに一読したが、そうした書籍をいくら読んでいてもサティの深い音楽世界を理解するには限界がある。
やはり望ましいのはサティが残した実際の音楽に触れることであり、楽譜を眺めていくことだろう。楽譜は作曲家が残した手紙のようだと最近強く思う。
手紙として受け取った楽譜とどこまで深く向き合うことができるかが重要だ。そうした態度に手紙を理解する度合いの差が生まれる。これは先ほどモーツァルトの曲に範を求めた時にも思ったことである。
すでにこの世を去った作曲家と楽譜を通じて対話ができる喜び。それを常に忘れないようにする。夜にバッハの曲を参考にする際にもその点を忘れてはいけない。
今日はこれから論文の最後の修正に入る。今日をもって論文の修正は終わりにしたい。
論文の執筆や作曲を通じて思うのは、最初から長いものを書こうとしないことの大切さである。人はいきなり長いものを書こうとして結局は途中で挫折する。
短いものを積み重ねていけばいいのである。それを継続させていくと、ある時ふと長いものが生まれることがあるかもしれない。長いものはそのようにして生み出されればいいのである。
あるいは、短いものの集積を長いものにしていけばいいのである。要点は、出てくるものを出てくるだけ外側に形として出すということであり、往々にして一回に出てくる量は小さいものだという認識を持っておけば、最初から大きなものを生み出そうという発想に囚われずに済むだろう。
日記にしても作曲にしても、とにかく小さなものを膨大に生み出していくこと。時に長いものが偶然に生まれることがあるかもしれないが、それは例外と認識する。
結果として、膨大に生み出された小さな創造物が巨大な一つの創造物に姿を変える。そのようなイメージを見ている。フローニンゲン:2018/7/13(金)16:17
No.1133: A Festival During a Day
I notice that there is a moment of the midst and end of a festival during a day.
The source of the festival seems to be in the transcendental world. Groningen, 11:14, Sunday, 8/19/2018