世間にいかに認められないか、世間からある種疎外された形で生き続けていくかがいかに大切かについて先ほど考えていた。世間から認められた瞬間に自分の中の大切なものがこぼれ落ちてしまうような予感がする。
それは肉体的な死ではないが、精神や霊性の死につながる類のものである。そうした意味において、世間は人を殺すのだ。
とにかく世間からいかに認められないかについて考えていかなければならない。そのための方策を練っていくことはこれからも続けていく。
世間の外で、誰からも見られていないところで絶えず自分の活動に従事してくこと。これが何より大切だ。世間と関わっていて良いことなど一つもない。
仮に現代社会の「あの」ゲームに興じるのであれば世間と付き合っていく必要があるかもしれない。だが、そのゲームの外で生きていこうと思うのであれば、世間と付き合うことはやめにしたほうがいい。
フローニンゲンの曇った空はそのようなことを語りかけてくる。早朝に起床した際に、確かに空には雲があったのだが、すぐに晴れ間が広がるだろうと期待していた。ところが今も相変わらず空一面が薄い雲に覆われている。
ただし、それでも太陽の神秘を感じることができるため何の問題もない、というようなことを先ほど思っていた。それを思わせてくれたのは、以前にサティの曲を参考にして作った曲だった。
今日はこれから、久しぶりにサティに範を求めて曲を作ろうと思う。作曲ノートを確認すると、ほぼ一ヶ月前にサティに範を求めて作曲していたことがわかった。午前中に一曲ほど作り、昼食前に過去の日記を少しばかり編集する。
その後、近所のスーパーに足を運び、昼食に合わせて、明日作る一週間分のカレーの材料を購入する。これまでは、「豚を食べれば豚のようになり、牛を食べれば牛のようになる」という個人的な食事原則から、カレーには肉類を入れていなかった。
私はベジタリアンではないのだが、自らの手で殺せないものは食べないという倫理的な考えが脳裏をよぎることがあり、カレーに関しては肉類を入れないことにしていた。しかし、先日動物性たんぱく質をもう少し摂取した方がいいのではないかという考えが芽生え、それ以降、オーガニックの豚肉をカレーに入れるようにしている。先週はこれまでの習慣からか、豚肉を購入することを忘れてしまったが、今日は忘れずに購入したいと思う。
昼食後に投資の勉強をして、その後に仮眠を取ったら再度作曲実践をする。その後、論文の誤字脱字の確認、そして文章の圧縮作業に取り掛かる。
三度目の修士論文を書き終えることが近づいてくるにつれて、科学的言語と詩的言語の相違、とりわけそれらが開示する世界の範囲と性質について考えることが多くなった。私にとっては、前者の線形的な言語特性に少々辟易している。
ただし、それは自分が文章を書く場合においてである。他者が線形的な科学言語を用いて執筆した優れた論文を読むことは今もなお充実感を私にもたらしてくれる。自分がそうした言語を駆使して文章を書くことに飽き飽きしているということを感じ始めているだけだ。
一方、後者の詩的言語については、他者がそれを用いて産み出した詩作を理解するのは大抵難しい。先日マラルメの詩集を読んだ時にもそれを感じた。
だが今は、そうした詩的言語に徐々に親しみつつある自分の姿を見て取ることができる。これまでは詩集を購入することはなかったのだが、ここ最近に立て続けに、ルーミー、ブレイク、マラルメ、リルケ、オーロビンドの詩集を購入したことがそれを物語っている。
日々の読書に関して、学術論文や専門書だけではなく、詩集が読書の範疇に入ってきたことは、これからの自分の変容を静かに予感させる。日曜日に最終版の論文を提出すれば、来週からは再び詩集をゆっくりと読むことができるだろう。それを楽しみに今日の論文の修正作業に取り掛かる。フローニンゲン:2018/7/13(金)10:19
No.1131: Quiet Morning
This morning is quiet as usual and even meditative.
I want to make progress for my daily work, engaging with it in a mindful way. Groningen, 10:56, Saturday, 8/18/2018