ロンドンのナショナル・ギャラリーで見たモネの特別企画展に影響を受けてか、ここ最近は抽象主義的な絵画作品ではなく、印象派の作品を眺めることが多くなっている。抽象的な絵画世界にも相変わらず惹かれるものがあるのだが、再び印象派に戻ってきたような感覚がある。
長い間抽象的な絵画作品をよく眺めてきたからか、このたび印象派に戻ってきてみると随分とその見え方が変化していることに気づく。端的には、自分の魂の心象風景に深く響く感じがするのである。
先ほど、何気なしにルノワールの絵を眺めていると、作品で取り上げられている場所に自分が足を運んだことがないにもかかわらず、そこに足を運んだことのあるような感覚に囚われた。そこは実際に自分が足を運んだことのある場所であって、呼吸をしたことのある場所だという感覚がしたのである。
この現実世界の私はそこに足を運んだことなどないのであるからこれは不思議だ。印象派の「印象」というのは、もしかすると魂の原風景における印象なのではないか、という考えが浮かんでくる。
魂の原風景は万民に共有されている普遍的なものであるがゆえに、現実世界の私が実際にその場所に行ったことがないにもかかわらず、どこか懐かしさを感じるのである。印象派の作品をぼんやり眺めているとそのようなことを思った。
改めて考えると、日々私は音楽を聴くことのみならず、絵画作品からも癒しを享受しているように思う。毎日日記を執筆し、それに合わせて一枚の絵画作品の写真を選ぶようにしている。
自分が書いた文章によって喚起されるものにできるだけ近いもの、あるいは時に一見すると全く関係なさそうでいて実は深層的な部分で繋がっているような絵画作品の写真を眺めるようにしている。これまで何気なくこれを行なっていたが、文章を書くのみならず、それに合わせて文章によって喚起される感覚に近しい絵画を眺めることは自分の感覚をさらに磨いていくことのみならず、根本的に精神の治癒に繋がっていると実感している。
こうしたことが可能になっているのも、実際の絵画作品を制作した他者のおかげである。彼らが世の中に形として絵画作品を残してくれたおかげで、私はこのように多大な恩恵を得ているのである。
そうした恩恵を受けているのであれば、そのお返しとして自分も何かを形にしていく必要がある。そのような思いが湧いてくる。
日々が音楽と絵画、そして読書と日記の執筆で溢れ返り始めた。これはとても良い傾向であり、この傾向をもっとずっと極端な形にまで推し進めていく。
今の状態では全くもって不十分である。やはり今は探究活動にせよ創造活動にせよ、まだまだ準備の時期なのだ。
自分が思い描いている生活の後ろ姿が徐々に見えてきた。今はそこに向かって愚直に歩いていく。
手元にあるノートを確認すると、今からちょうど三ヶ月前に内的感覚をデッサンする実践が始まった。今もことあるごとに、特に自分が作った曲を再度聴いている時にデッサンをしている。
デッサンの技術についても独学で高めていく必要がある。肉眼で見たものを本物に似せて描く技術などいらない。なぜなら、自分が描いているのは肉眼ではなく心眼もしくは魂眼で捉えたものだけだからだ。
ただし、表現により幅を持たせるためには最低限のデッサン技法を習得しておく必要があるように思う。このあたりについては良い実践書があればいいが、今はそうした書物を購入する気はない。
今はそうした書物を読むよりも作曲理論の解説書を読むことや詩集を読むこと、さらには芸術教育や美学に関する書籍を読むことを優先させたいという思いがある。次回実家に帰る機会があれば、父からデッサンの手ほどを受けようと思う。フローニンゲン:2018/7/11(水)13:15