
不協和音を巧く響かせる技術をまだ持ちえていないが、それを恐れて一向に不協和音を曲の中に組み入れないというのでは技術の向上は見込めない。不協和音を曲の中に盛り込むというのは、文章の執筆で言えば、どこか耳に痛いことを指摘することに似ているとふと思った。
そう思った瞬間に、これはなかなか面白い比喩だと思わされた。確かに、耳に痛いことを指摘する文章というのは文字通り痛切な何かが体現されている。
曲における不協和音というのもまさにこうした一見すると耳に不快感を与える類の音なのだろう。しかし、耳に痛いことを指摘することが時に非常に重要であるのと同じように、不協和音というのも時になくてはならない存在なのだと思う。
何かに刺さっていくような批判的な見解がないような文章はとても優等生的ではあっても、往々にして面白味に欠ける。それと同じように、調和の取れた協和音だけの音楽も面白味に欠けるのだろう。
そのようなことを考えていると、やはりこれからの自分に求められているのは、不協和音をいかに曲の中に表現していくかという点である。不協和音を組み込む塩梅を実践を通して学んでいき、いかにそれらを組み込んでいくかの技術を高めていく。不協和音というテーマはこれからより一層意識していきたい。
昼食前から晴れ間が広がり始めた。天気予報を一度疑ってかかったが、やはり予報通り天気が回復してくれたことを嬉しく思った。幸運にも、ちょうど太陽がで始めた時にランニングに出かけることができた。
計画していた通り、近くの河川敷沿いのサイクリングロードを走った。気温は暑くもなく、ランニングには最適な天候であり、足取りは非常に軽かった。
現在は、毎朝ヨガを行い、週に一度はランニングを行うようにしている。ランニングや散歩がてらに近所のスーパーに買い物に行かない日は、夕方にもう一度ヨガを行うようにしている。
ちょうど先ほどランニングから戻ってきたが、やはり体を動かすことは心身を整える上で最良の実践だということを改めて思う。これは不思議なことに、ランニングに出かけるたびに思う。
ある意味、こうした実感が週に一度のランニングを確かな習慣にしているのかもしれない。心身のつながりについては探究する余地がまだまだ沢山ある。両者のつながりの重要性については強調しても強調しすぎることはないだろう。
現在、日々の探究活動と創造活動に打ち込めているのは、間違いなく健全な肉体があるからだ。肉体が不健全なものであれば、それらの活動に真に打ち込むことはできないだろう。
継続的にある一定以上の投入量を持ってそれらの活動に従事するためには、身体を鍛錬していく必要がある。それを忘れてはならない。
フローニンゲンの空に青色が戻ってきたことはとても嬉しい。早朝のキャンバスには灰色が多くの割合を占めていた。今はすっかりと灰色がなくなり、スカイブルーの空に薄く白い雲が少しばかり浮かんでいるだけである。
爽やかな風が街路樹の葉を揺らしている。街路樹の葉の表情を眺めていると、どうも嬉しそうに微笑んでいるように見える。
空を舞う鳥たちも昨日以上に元気に見える。さて、これから過去の日記を少しばかり編集し、仮眠を取った後に論文の修正に着手したいと思う。フローニンゲン:2018/7/11(水)12:41
No.1129: Reciprocal Relationship between Nature and the Selfs
The brighter the sky becomes, the more pellucid my mind becomes.
I can find the reciprocal relationship between nature and the self. Groningen, 08:45, Friday, 8/17/2018