今日は本当に肌寒い。空を覆っている雲のせいもあるだろうが、今日の体感温度は七月のそれだとは思えないほどである。
外面世界の肌寒さと内面世界のそれが呼応することもあれば、呼応しないこともある。今日は幾分前者だと言えるだろうか。
外側の気温が肌寒いことによって、自分の内側にもどこか冷たい感情が流れている。午前八時を迎えた今時点の自分の状態はそのように形容できる。
六月に一度気温が上がる日が少し続いたことがあったように記憶しているが、今となってはそれが嘘のようである。フローニンゲンは夏も最高気温は20度前半であることをもう一度思い出す必要がある。
昨日よりも少しだけ明るさがあるが、まだ太陽の姿を完全に把握することができない。昼食前にランニングに出かける時までに、空を覆う雲がもう少し晴れてくれればと思う。
当初の予定では近所のノーダープラントソン公園へランニングに出かける予定であったが、ランニングコースを変更し、近所の河川敷を久しぶりに走るのもいいかもしれないと思った。その道は、以前研究インターンの際によく通っていた道であり、その道を辿っていけば、ザーニクキャンパスに辿り着く。今日はいつもより多く走りたい気分であるから、そのコースを走ることにしたい。
つい先ほど過去に作った二曲の編集を終えた。ここ最近は毎日三曲ほど作ることが習慣になっているため、日記と同様に、気がつかないうちに未編集のものが次々に溜まっていく。
今日編集をした二曲はおよそひと月前に作ったものだ。毎朝過去に作った曲を聴くことは密かな楽しみの一つである。というのも、自分が作った曲がどのようなものであったかを忘れているものも少なくなく、いつも早朝に曲を改めて聴いてみた時に、過去の自分がそうした曲を作っていたことに驚かされることがよくあるからだ。
また、本当に毎日異なる曲を生み出していることにも改めて驚かされる。一つとして同じ曲がないことは、自己の内側にある創造の源がいつも異なる形を生み出していることを示唆している。
毎回のデッサンと共に、毎回の作曲は絶えず異なるものを形としてこの世界に創造しているのだ。ここに創造の不思議さが宿っている。それは即、人間存在の不思議さとも繋がってくる。
毎日毎日異なるものを生み出し続ける人間の内面世界。創造空間の豊穣さには本当に驚かされてばかりである。
今朝方に聴いていた曲は、どこかこの世界の諸々の物語が道化師の踊りのように思えることを喚起するものであった。この現実世界で構築されている物語の外に出てみると、その物語の様々な事柄が見えてくる。
まず最初に知覚されるのはその虚構性だろう。虚構性を知覚した後に再度その物語を眺めてみると、実に微笑ましいものもあれば、嫌悪感を抱かせるものもある。
それらは決して物語の世界と同一化していては見えないものであり、感じられないものだ。今日これから作る曲はどのようなものを喚起させてくれるだろうか。それを一つの楽しみとして、これからモーツァルトの曲に範を求めて一曲作る。フローニンゲン:2018/7/11(水)08:30
No.1127: Old Memories
I’ve recently recollected old memories quite often.
Our unconsciousness is rife with ample memories, though those memories might be both positive or negative. Groningen, 09:07, Thursday, 8/16/2018