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2816. 夢とシャドー


つい先ほど、今朝方に見ていた夢について書き留めていた。ここ最近思うのだが、夢に登場する見知らぬ人物はもしかすると自分に他ならないのではないだろうか。

厳密には、夢に登場する人物は、自己のシャドーのある一つの側面を体現したものなのではないか、ということである。ここでシャドーとは当然ながら否定的なものと肯定的なものの双方が含まれる——より超越的な視点で見れば、全てのシャドーは中立的なのだが。

今朝方の夢の中に現れたあの日本人の少年はもしかしたら自分なのかもしれない。上記の仮説に基づけば、あの少年は自己のシャドーのある側面であり得るかもしれない、という考えが芽生える。

スペイン語と英語を流暢に話し、チームメイトと活発にコミュニケーションを図るあの少年の姿を忘れることはできない。あの少年が仮に自己のシャドーのある側面を体現した存在であるならば、それはどのような側面を体現したものだと言えるだろうか。

これに回答することは実に難しい。考えられることはいくつかあるが、どれも深く自分を納得させることをしない。

これはシャドーに対する自分の理解が浅いためなのか、そもそも上記の仮説が根本から間違っているかのどちらかを示しているように思える。感覚的に可能性は前者である。

なぜなら、上記の仮説が根本から間違っているということを感じさせない直感的な確からしさが自分の内側にあるのを感じているからだ。シャドーに対する自己認識を今後も高めていかなければ、夢の中で開示される自己の側面に気づくことができなくなってしまうだろう。

シャドーに対する理解を深めていくことは終わりなく続く実践のうちの一つだ。実はもう一つ仮説のようなものがある。それは、夢に登場する知り合いですらも自己のシャドーのある側面に他ならないのではないか、というものである。

夢の中でビットコインに投資していた友人。彼は自分のどのようなシャドーを体現したものなのだろうか。

彼の投資手法は目先の利益しか追いかけておらず、実に近視眼的なものだった。私が彼の投資手法を批判しようとしていた点は、なぜチャートを眺めるだけのテクニカル分析しかしないのかという点、つまりなぜ投資対象の実質的な価値や有用性などに着目しないのかという点だった。

要するに、ファンダメンタルズ分析をしない点に私は批判の矢を向けていた。つまるところ友人の投資手法は目先の利益しか追いかけず、近視眼的であり、ファンダメンタルズ分析を怠っているという点において本質を捉えていないのである。そのようなことを夢の中で思っていた。

では仮にこの友人が自己のシャドーのある側面を体現しているという仮説に従うならば、多分に私にも彼と同じような側面があるのではないか、ということが見えてくる。それはもちろん投資に関してではない。

投資においてファンダメンタルズ分析を怠るということはない。だが、日常のそれ以外の事柄についてはどうだろうか。

どこか近視眼的になってはしないだろうか。本質を見失っていることはないだろうか。そのような問いが自分に向かう。

それらの問いに静かに考えを巡らせる自分が今ここにいる。やはり夢は私たちにいろいろなことを教えてくれる。とりわけ自己について豊穣な洞察を内包しているのが夢の本質だ。

日々の学習や実践において、確かに私はテクニカル分析のようなことしかしていないかもしれない。ファンダメンタルズ分析をする必要性にはたと気づかされた。この気づきをもたらしてくれたのはまさに今朝方の夢であった。フローニンゲン:2018/7/10(火)08:08

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