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2811. 発達の「ユートピア的アトラクター」について


テレマンの曲を参考にして一曲作った後、マラルメの詩集を少しばかり読み進めた。今詩集を机に置き、先ほどの作曲実践について少しばかり振り返っている。

テレマンの短調の曲の中になんとも言えない美しいメロディーとハーモニーがあった。その美しさは哀しみが持つ輝きのようであった。

今も書斎の中にはテレマンの曲が鳴り響いているが、こちらの曲は長調の明るい輝きを発している。当時バッハ以上に評価が高かったと言われるテレマンの作品群から学ぶことはとても多い。午後からもテレマンを参考に一曲作り、その後にバッハのコラールを参考にして曲を作っていく。

マラルメの詩集を読み終えた後、発達理論の専門書を読み進めていた。前回の続きから読もうと書籍を開けてみると、以前その書籍を読んでいたのが三月の中旬であることがわかった。

どうやら四ヶ月ほど本書を放置していたようだ。続きを読み進めていくと、発達論者のピエール・テイヤール・ド・シャルダンの考えの中に面白いものがあった。それは「ユートピア的アトラクター」と呼ばれるものである。

これは端的には、人間の発達における極致であるオメガ・ポイントが私たちの永続的な発達を導いていくという考え方である。確かに、仏教などの伝統的な宗教における意識の発達思想を含め、発達科学における発見事項からも、人間の発達の極致がどのようなものなのかについては随分と多くのことが明らかになっている。

もちろん、現代においてそれらの特性がどのように発露するのかについては不明な点があることは確かだが、一般的に意識の発達と呼ばれる人間の発達についてはかなりのことが明らかになっている。

発達のオメガ・ポイントというのは、人間が到達しうる発達段階の極致のことを指し、それが人類の進化を引き上げる作用を持つというのがユートピア的アトラクターという考え方である。

テイヤール・ド・シャルダンのこの考え方は非常に興味深いものの、どうも発達のオメガ・ポイントはそのように人類の進化を引き上げるようには働いていないのではないかと思うことが少なくない。端的には、テイヤール・ド・シャルダンの「ユートピア的アトラクター」という発想そのものがユートピア的なものなのではないかと思う。

実際のところ、発達科学の進展などによって発達の極致が明らかになってくることによって、確かに人々はそれらの段階に到達することを目指そうとし始めるが、果たしてそれが成功しているかというと、大きな疑問が残る。むしろ、発達の極致が明らかになることによって、人々が盲目的にその極致へ向かおうとすることが逆に人類の進化を妨げているようにも思える。

複雑性科学の概念を用いれば、これはアトラクターというよりも、「リペラー(repeller)」と呼べるのではないだろうか。リペラーはアトラクターとは対照的に、システムの挙動を不動点から遠ざけていく。

発達の極致の特性が徐々に世に知られるようになるにつれ、人々はそこを目指そうと尽力するが、かえってそれがその地点に到達することを妨げている。そのような現象が見受けられるような気がしてならない。

そうでなければ、この現代社会の未成熟さを説明することは非常に難しい。テイヤール・ド・シャルダンが提唱した「ユートピア的アトラクター」のユートピア性についてはこれからより考えを深めていこうと思う。

今はとりあえず書籍を読み進めながら思いついたことを走り書きしておくことに留める。フローニンゲン:2018/7/9(月)11:17

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