やはり内的感覚が湧き上がってきた都度文章を書いてみると、それがどれほど自分を落ち着かせ、自己を深めていくことにつながるかがわかってくる。普段私はそれほど日記を書き留めていないが、それでも一日に平均して原稿用紙10枚分(4000字)以上の日記を書いているように思う。
以前から分かっていたが、やはりこれはあまりにも量が足りない。当然これまでは自分を抑制していたということもある。だが、この抑制をそろそろ取り払ってもいい頃なのではないかと冷静に考えて思う。
今から六年前にサンフランシスコの街を歩いている時に知覚した二枚の膜。正気と狂気の二つの膜が表裏一体の関係になっており、両者の膜の移動は私たちが思っている以上に容易かつ突然なされるということに気づいて以来、私は正気を保つ形でこれまで過ごしてきた。
だが、欧州での生活を始めて以降少しずつ気がつき始めていたのは、狂気の世界に行く準備ができてきたということであった。厳密には、狂気の世界の中にあったとしても、狂気を正気に変容できる自己が誕生しつつあることを自覚し始めたのである。
それにしても鳥は見事に空を飛ぶものだなと感心する。あのように見事に飛ぶことができれば、狂気の世界もうまく渡っていけるだろう。
白い鳥のゆったりとした優雅な旋回に思わず見とれてしまっていた。目を奪われる素晴らしい光景を目の当たりにした。あれは慣性の法則を利用した飛行と言えるだろうか。
私たち人間はなぜあのように生きようとしないのか。慣性の法則を無視するほどの速度で動こうとする愚かな人間たち。
等速直線運動について調べてみると、それをこの人生に活用する際にはどうやら力を抜くことが重要だということがわかってきた。運動している物体に力が働かない場合、もしくは諸々の力が釣り合っている場合に慣性の法則が働くのであれば、その法則が人生にも働くように力を抜いてみるということ、自己を取り巻く諸々の力に調和をもたらすことが重要なのではないかということが見えてくる。
力んでいてはダメなのだ。それではあの鳥のように優雅な旋回を大空で行うことはできない。
あの鳥が旋回していた時の気持ちになってみよう。自分ではない外側の対象の内部に入ってみること。それを行ってみると、鳥の気持ちになれる。
それができなければ自分が自己という狭い檻の中に入っていることを知ろう。鳥の気持ちになってみると、実に気持ちが良い。自己が周りの環境に溶け込み、環境と同一化している感じがする。
優雅に大空を旋回している鳥の気持ちになってみると、そのようなことが言える。先ほどの鳥はもう姿が見えず、今は空にまた新しく別の小さな白いちぎれ雲が浮かんでいる。今度は雲の気持ちになってみようとした。
さすがに無生物でそれをするのは難しい。だが、自己をくつろがせ、落ち着いてみればそれは不可能なことでは決してない。
雲の気持ち。空に浮かぶ雲の気持ちはまだ自分が体験したことのない気持ちに近いことがわかった。それは人間としての人生を終えた後に辿り着く場所で感じる気持ちに等しいと言えるかもしれない。
冒頭の主題に戻ると、とにかく日々の生活の中で湧き上がることを文章として書き留めておく。狂気という雲が晴れるまで文章を書く。
狂気が正気となり、それがいかなる天気にもなりうる空になるまで文章を書く。いや空になっても文章を書き続け、仮に自分が今あの空に浮かぶ雲になった時だけが筆を置く瞬間なのかもしれない。フローニンゲン:2018/7/8(日)09:00
No.1122: A Drizzling Rain
It is drizzling this morning, but the weather forecast says it will stop in the evening.
Today is a day when my spirituality is silently vibrating. Groningen, 09:15, Tuesday, 8/14/2018