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2799. オーロビンドとクリシュナムルティから


以前から少しずつ、オーロビンドやクリシュナムルティなどの覚者が執筆した書籍を読むようになった。昨日もオーロビンドが執筆した書籍を読んでいたのだが、そこで二人が同一の事柄を指示していることに気づいた。

外見上は異なるのだが、よくよくその意味内容を確認してみると、二人の指示は一致している。主題としては自己の発達と括ることができるものについて、オーロビンドは内化(involution)から外化(evolution)が始まり、その逆ではなく、発達は内化から始まることについて指摘する。

一方、クリシュナムルティも同様に、形式的な教義や信条、儀式によって真理に到達することはできず、徹底的な自己認識を通じてのみ真理に至るということを指摘する。つまりクリシュナムルティも発達の起点を内化に置いていることがわかる。

クリシュナムルティはあるがままの観察が我執からの解放につながると述べているが、おそらくあるがままの観察だけでは足りないだろう。「観察」の先にある何かしらの行為・実践が必要になるはずだ。

起点は観察という内化なのだが、観察だけでは内化にとどまる。内化を外化につなげていく何かしらの行為や実践が不可欠となるはずだ。

我執からの解放というのはまさに、内化を起点にして外化が実現した時に成し遂げられるものなのではないかと思う。もしかすると、内化によって得られた発見や感覚を外側に形にしていくということがまさに外化に他ならないのではないかという考えが浮かんでくる。

そうであれば、内化によって得られたものを外側に表現することの意義と重要性が見えてくる。また、内化によって喚起されたものを外側に表現するための手段を獲得していくことの大切さも見えてくる。

まさにこの点に、芸術教育と霊性教育の大きな意義があるのではないかということが見えてくる。両者の教育はどちらも共に内化を促すことを目的にしており、とりわけ芸術教育は、内化によって得られた感覚を外側に表現するための手段を提供することに寄与するべきものである。

そして霊性教育は、内化の産物を芸術教育によって形とした後に、それを我執からの解放という外化につなげていくべき役割を果たすものなのではないか。そのようなことを考えていた。

オーロビンドにせよ、クリシュナムルティにせよ、彼らが残した書籍を単に覚者の言葉として捉えるだけではなく、芸術教育や霊性教育の役割と意義、そしてその可能性について考察を深めるために今後も読み進めていきたいと思う。

今日はいつにも増して穏やかな土曜日である。時刻は午前八時を迎えようとしているが、辺りはとにかく静かだ。

通りを走る車はほとんどない。道を歩く人の姿もまだほとんど見ていない。ただ静かに世界がたたずんでいるだけ。そのような印象を私に与える。

今は小鳥の鳴き声もほとんど聞こえておらず、ただ虫の鳴く声が聞こえる。ここから今日の活動をゆっくりと開始することにしたい。フローニンゲン:2018/7/7(土)07:47 

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