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2772. イマージュが宿る場所:詩的世界への関心の再燃


起床直後には風が吹いていなかったが、今は爽やかな風が街路樹をなびかせている。今日は土曜日ということもあってか、自宅の目の前の通りを行き交う人の数は少ない。

街路樹の葉が風で揺らぐ音が聞こえてきそうである。時折、小鳥たちの鳴き声が聞こえて来る。今日は小鳥たちも普段に比べて少しおとなしい。

先ほど、「寡黙な小人が今日も歩いていく」という内的イメージが浮かんできた。その小人は誰も見ていないところで今日も毎日を生きている。

どこに向かっているのかも知らず、ただ歩くことだけがその人生の中にある。静かに黙って歩き続ける姿が心の眼を通して見えてくる。

そのイメージに合わせて、誰しもの内面世界にある廃墟のイメージが湧いてきた。その廃墟の周りには水が湧いている。

私たちはその水を眺めたり、その水を飲んだりしながらその廃墟を後にしていく。その廃墟はどこか哀しみの色を帯びているのだが、その廃墟は廃墟としての存在意義を持っている。

目の前に広がる外の明るさ、そしてこの瞬間の自分の内面世界の明るさにもかかわらず、自分がどうしてそのような連続するイメージを見ていたのかはわからない。私たちが持つ内的イメージというのは本当に奥深い性質を持っている。

そもそもそうしたイメージが生まれてくる根源はとても神秘的だ。イマージュが宿る場所。それについて思いを馳せる。

イマージュが生成する場所は創造の源だと言えるだろう。そこから内的イメージのみならず、言葉が生まれてくる。

音楽や絵画もこの場所から生まれてくるに違いない。詩というものもこうした場から生まれてくるのだろう。

それが喚起する固有のイメージや感覚についての関心が高まってくる。近々少しずつ詩的言語についても学びを深めていきたい。

学びを深めるというよりは、実際の詩を鑑賞することを大切にしたい。ひと月前に訪れたアムステルダムのゴッホ美術館にせよ、大英博物館にせよ、そこのショップで日本の俳句が英訳で置かれていたことをふと思い出す。

私はそれを見つけるたびに、購入はしないものの手に取って眺めていた。今の私にとって最も鑑賞が難しいのは音楽でも絵画でもなく、詩である。

詩を理解するのはとにかく難しい。詩を理解するためには何かが必要なのだろうか。言い換えると、真に詩の世界に入っていくためには何が必要なのだろうか。

詩的言語を理解し、詩の世界に深く入っていくことを希求する自分が芽生えてきた。以前フローニンゲンの街の古書店で、リルケやマラルメの原書の詩集を眺めていた。

ドイツ語やフランス語を解しない私にとってそこに書かれていることは理解しようがなかったのだが、彼らの詩には妙に惹きつけられるものが以前からある。今すぐにとは言わないまでも、リルケやマラルメの詩集を原書で読みたいと思う。

シュリ・オーロビンドが詩について書いた書籍をその古書店で購入していたことからも、やはり私の中に詩に対する強い関心があるのは間違いないだろう。その関心を少しずつ育んでいくようにしたい。

欧州での三年目の生活、そして今後は自分の探究活動のみに従事するような生活を形作っていこうと考えているため、詩をゆっくりと読むことも可能だろう。何よりもそれをしたいと望む自分がいる。

来月クレラー・ミュラー美術館を訪れることになっており、そこで仮に俳句もしくは詩集が売られていたら、良いものを購入したいと思う。また、街の行きつけの古書店に行き、リルケやマラルメの詩集をどれか購入したい。店主のテオさんに相談してみよう。フローニンゲン:2018/6/30(土)08:41 

 
 
 

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