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2768. 現代社会のせわしない流れ:消費者に貶められる現代人


フローニンゲンでの落ち着いた生活が再び始まったことを嬉しく思う。もう少しで午前11時を迎えるため、これからランニングに出かけたいと思う。

今日はノーダープラントソン公園を走る。その帰りに近所のスーパーに立ち寄り、必要なものを購入したいと思う。

今日は本当にランニング日和であり、金曜日ということもあってか、時の流れもいつもより緩やかに感じる。緩やかに流れていく時を感じることがどれほど重要か。

その点については、大都市に時折足を運ぶ際にいつも思う。大都市に流れるあの鋭利的な時の流れの速さ。それは現代社会のせわしなさを醸し出している。

また、そのせわしなさは愚かなほどである。私たちは決して愚かなほどにせわしなく生きるために生まれてきたわけではないはずである。

私たちは自分の内側に流れるゆっくりとした時の流れを取り戻す必要がある。大都市に足を運ぶといつもそのようなことを思う。

自分の内側の流れの中で生きているのではなく、外側のせわしない速さで流れる流れに流されていることに気づかなければならない。実際には、それに気づけない人がほとんどであるほどに事態は深刻なのだが。

ロンドンを訪れた時に新たに得た一つの気づき。それは芸術教育と投資教育の重要さであった。

それらの重要さについて少しばかり考えを巡らせる日々が続く。一年前から私は作曲実践を始めたが、音楽の作り方について学校で教えてもらったことは一度もない。

同時に、この金融資本主義の社会の中で生きていくために必要な資産の作り方についても学校では教えてもらったことはない。つまり学校では創造する方法を教えてもらえず、この金融資本主義の社会の中で単に消費行動に煽られる形で生きていくのではなく、資産を形成していく方法について一切教えてもらわなかったのである。

現代の教育は本当に形骸化してしまっている。あるいは、本当に大切なことを教えてくれないと言える。

常に私たちは芸術の消費者のままであり、経済的な消費者のままである。「消費者のまま」というよりもむしろ、「消費者に貶められている」と言った方が正確かもしれない。

もともと私が日本の大学で専攻していたのは、金融・経済・会計であり、とりわけここ最近は投資の観点でそれらの分野の大切さを実感している。だが、ここでも大学で習ったことは消費者から脱却することや資産を形成することに直接的には結びつかない。残念ながらこの現代社会においては、それらの方法は自分で学ぶしかないのだ。

自らの魂の声に気付き、ある種の使命に向かって行動を起こそうとするとき、その使命が経済的な生活を保障するものであれば私たちは生きていくことができるが、現代社会においてはそうでもないことが多い。

ロンドンのナショナル・ギャラリーで見た傑作の作者の多くは、芸術という使命を見つけていながらも、彼らの生活は困窮したものであったことが多いことを知る。確かにそうした生活上の苦難が彼らの芸術活動を後押ししたという見方もできるが、生活の困窮から若くして亡くなった偉大な芸術家が多いことも確かであろう。

仮に彼らに生活を保障する他の手段、まさに投資のリテラシーがあればどうなっていたのだろうかと考えさせられる。

今のところ自分の中では、芸術教育と投資教育がどちらも共に重要なものであるということはわかっているが、それらのつながりについては不明確である。今はそれらが独立したものとしての重要性を持っているような認識がある。

それぞれに重要性について自らの体験を通じて考えを深め、二つの重要性の関係についても考察を深めていこうと思う。これからのランニングの最中にもまたそれについて考えるかもしれない。フローニンゲン:2018/6/29(金)11:13

No.1113: An Erstwhile Church

It is approaching 8AM. Now, I’m being embraced by a very peaceful feeling.

It feels like I recollect a church that I used to visit. Groningen, 07:57, Thursday, 8/9/2018

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