ロンドン旅行から帰ってきて二日間ほど文章を書く内発力が弱まっていた。その代わりに、内側で何かを静かに発酵させていくような力が働いたように思う。
同時に、旅による変容作用を咀嚼するかのように、心身に調整が入っていたことも見逃すことはできない。この二日間と異なって、今日からはようやく文章を書き留めておこうとする内発力が戻ってきたかのようだ。
今日は本当に澄み渡るような空が広がっている。書斎の中にショパンのワルツが流れている。
初夏の早朝の風も笑いながら踊っている。真っ当な人間であれば風の笑顔に容易に気づくことができるだろう。
自然はいつも私たちに何かを教えてくれる。自らが狂気の沙汰にあるのかどうか、現代社会によって感覚が麻痺されてしまっているのかどうかなど、諸々の気づきを自然は教えてくれる。
風の笑顔に気付けないのであれば、それは何らかの病の兆候であり、そうした病の兆候に気づけなくなっているのであれば、それは重病を患っていることを示している。
いつの間にか今週も金曜日を迎え、平日の最後の日となった。曜日など全く関係ない日々が続く。そこにあるのは自分の内側の時間感覚のみであり、そうした時間感覚の中で営まれる日々の実践だけである。
人生のこの川の流れに身を任せながらあの川に向かっていくことができればと思う。ここ最近、あの川の存在が強く自覚される。
誰もが向かうあの川に自分も少しずつ向かっているのだという明確な気づき。
青く澄み渡った大空を舞う鳥たちは本当に元気がいい。それを見ているこちらも元気になる。
私は欧州に来て初めて、「鳥が鳥である」という鳥の如性に気づいた。端的には、鳥があるがままの存在であることを明確に把握する大きな体験があり、それ以降、鳥の見え方が一変した。
正直なところ、他者に対して、いや家族を含めて、自分以外の人間は自分以外の人間であると区別されてしまうのだが、如性に気づかされた鳥に対しては別の感覚を持っている。書斎の窓際に近寄ってきた鳥を見ると、それと自分が同一化するという不思議な体験をすることが増えてきた。
そこには鳥と自分との区別はないのである。鳥の如性に気づく瞬間に、自分の如性に気づく。それはまさに「我に返る」ような体験なのだ。
この体験が示唆していることは、鳥に固有の如性があるのと同じように、自分に固有の如性があるということである。そしてもう一つは、それら二つの異なる如性は重なり合うことができるということである。
さらにもう一つこの体験が示唆している重要なことは、それは私と鳥だけの間で起こることではなく、本来は他の人間との関係性の中でも起こり得るということである。私は今はまだ他者の如性がわからない。
如性に触れた体験がないのであるからそれは正直にそのように言わなければならない。そうしたことからも、自分はまだ道半ばなのである。ここから少しずつ他者の如性に対する眼が開かれていくことを望む。
小鳥たちのさえずりが聞こえて来る。彼らは如性の歌を歌っている。
鳥たちが空を舞っている。彼らは如性の踊りを踊っている。フローニンゲン:2018/6/29(金)10:40
No.1112: In a Creamy Field
Everyday, I can sense something soft inside myself.
It looks like as if I were walking in a creamy field. Groningen, 08:05, Wednesday, 8/8/2018