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2714. 鬱積と形象化


今日もまたある一日が終わりに差し掛かっている。時刻は夕方の七時半を迎えた。

今日は少しばかり奇妙な土曜日であった。いつもと同じような時刻に同じような状態で起床したにもかかわらず、午前中の活動時の精神の有り様はいつもと異なっていた。

夕食を摂り終えた今は再びいつもの状態に戻っているが、今日の午前中の精神の様子については少しばかり考える必要がありそうだ。

とにかく焦らずにゆっくりと進むこと。これを何度も自分に言い聞かせる必要がある。何となれば私は自分に対して負荷をかけすぎるからだ。

明日からは早朝のデッサンをきちんと行うようにしたい。起床直後にその瞬間の内的感覚を絵として形にすることによって、どこか一日の活動が円滑なものになるような感覚がする。

とにかく自分の内側で形になろうとするものを溜め込んではならない。様々な表現形式を用いながらその都度それを形にしていく。

自分の場合は、言葉、音楽、絵としてそれらを形にしていく。どれか一つの表現形式に偏っていてはダメである。

一つの表現形式にはそれに対応する固有の造形作用があり、一つの表現形式に偏ってしまうと、その表現形式では表現できないものが内側に溜まってしまう。それが自分の内側の循環を悪くしてしまう。

今朝の状態はその表れだったのではないかと思う。内的感覚をデッサンすること自体はもう日々の習慣になっている。

特に、過去に作った自分の曲を聴く際や、過去の作曲家が作り上げた曲を参考にする際には必ずデッサンをするようになった。あとは早朝のデッサンをより確かな習慣にしたい。

就寝前にあらかじめノートを机の上に開いておき、色鉛筆を机の上に置いておくというのが望ましいかもしれない。今夜からそれを実践してみようと思う。

今日はこれから本日二度目の作曲実践を行う。午後に引き続き、またモーツァルトの曲に範を求めてみようと思う。明日はショパンとバッハにしようと思う。

自分の内的感覚を自由自在に表現するまでの道のりは遠い。理想の境地に行き着くまでには果てしない道のりが待っている。

だが、私はそれほど悲観的ではない。どれほど時間がかかろうが、何年かかろうが、そこに向かって毎日少しずつ歩みを進めていく。

もう少し技術が高まれば、毎日の食事の回数ほど曲を作る。確かに理想的には自然言語で日記を執筆するのと同じ頻度で曲を作りたい。それはまた次の段階だと思う。

その前に、毎日の食事の回数だけ曲を作る段階に向かっていく。普段の朝食は軽く、昼食と夕食は普通であるように、三曲が同じ分量を持つ必要はない。

そこに濃淡やばらつきがあっても構わらない。二曲はある程度の長さの曲を作り、もう一曲はより短いものにしていく。

ただし、それら三つの曲については必ず新たな仮説を持って曲を作る。あるいは、新しい何かを試す形で曲を作っていく。

午後にふと、自分の内側にある影の側面も巧みに曲として表現したいと思った。それは影を治癒するという目的よりも、影を影として正しく自分で認識したいという思いから生まれた要求である。

人間精神の光と闇の双方を曲として描いでいく。時に光だけの曲や闇だけの曲があってもいい。そして、それら双方が組み込まれた曲があってもいい。

とにかく一つに偏りすぎた形では曲を作らない。なぜなら人間は光と闇の側面を絶えず持ち続けているのだから。フローニンゲン:2018/6/16(土)19:56 

No.1079: Mr. & Mrs. Birds

I can hear placid birdsongs.

Since I became willing to listen to Grieg’s music in the early morning, I decided to listen to his works all day. Groningen, 08:29, Saturday, 7/21/2018

過去の曲の音源の保存先はこちらより(Youtube)

過去の曲の楽譜と音源の保存先はこちらより(MuseScore)

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