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2694. 成人発達理論を取り巻く現在の問題点


夕食前にもう一つだけ日記を書き留めておきたい。先日、成人発達理論に精通している知人の方から非常に重要なテーマについて質問を受けた。

端的には、「自己の生きる時代や社会そのものを真に批判的に眺めて、それについて批判活動を展開していくことができるようになるためには、どの発達段階に到達している必要があるのか?」という問いである。

最近では成人発達理論の認知が世間で広まりつつあるが、結局、成人発達理論の知見が既存の社会構造の中で——とりわけ企業社会の中で——成功を成し遂げるための単なる道具に成り下がってしまっているという状況には問題があるだろう。

知人の方が指摘してくださったように、成人発達理論の意義と価値は、このリアリティに存在する種々の呪縛から自己を解放し、積極的に世界に関わっていくことを可能にすることにある。それにもかかわらず、現在のような形で成人発達理論が認知・活用され始めているのは私も残念である。

その知人の方の質問にある発達段階というのは、特にカート・フィッシャーの理論モデルを適用した場合の段階を指しており、どの段階にあればこのリアリティに潜む虚構性を見抜き、それに対して健全な批判活動を展開していけるようになるのか、ということが争点だ。

リアリティの虚構性を真に客体化させためには確かにフィッシャーのダイナミックスキル理論で言うところのレベル12の認知能力が必要だと思うが、そうした能力があるだけでは虚構性を見抜いた上での批判活動は展開できないであろう、という回答をした。

つまり、レベル12の認知能力は、社会の物語が持つ虚構性を対象化した上でそれに対して健全な批判を投げかけるための必要条件であり、十分条件ではないということだ。

まず必要条件について言及すると、確かにそれほど高度な認知能力を携えていなくても既存の物語に対して疑問を持つことは可能である。だがここで重要な点は、既存の物語の何に対してどの次元で疑問を投げかけることができるのかという点にある。

極端な例を挙げると、学校社会を一つの物語世界に喩えると、それはレベル10しか持ち合わせていない中学生でも学校制度や学校文化に対して疑問を投げかけることはできる。こうした例からも、どのようなレベルの認知能力を持っていても既存の物語に対して疑問を投げかけることはできるのだが、物語の複雑な構造特性にまで踏み込んで疑問を呈するというのはやはりレベル12あたりの能力が必要だと思う、という回答をした。

次に十分条件に関しては、「領域(domain)」固有の体験と観点をいかに豊富に獲得しているかが、複雑な物語構造の限界を深く捉えるために不可欠だという点をまず指摘した。ちょうど先月末にアムステルダムで開催された国際ジャン・ピアジェ学会に参加した際に、そこでフィッシャーの協働者であったThomas BidellやMichael Mascoloの発表を聞く機会があり、フィッシャーのダイナミックスキル理論は領域固有性を強調している理論なのだと再認識した。

対象とする物語の範囲が拡大すればするだけ、領域も広がるため(例:経済社会、教育社会、政治社会)、物語構造を対象化させるための認知能力とその能力を発現させるための体験と観点が必要となる。上記の学校の例と同様に、高度な認知能力があったとしても、その領域に固有の体験や知識がなければ、結局浅薄な議論しか構築できないのではそのためである。

私たちを取り巻く種々の物語は、このリアリティに無数に張り巡らされているようなものであり、真にそれらの構造を対象化させるためには複数領域の物語の中でそれを対象化させるような鍛錬をする必要があるように思える。

ここまでのところを要約すると、冒頭の質問に対しては、「物語そのものを対象化するだけであればどの段階からでも可能であるが、複雑な物語の構造を把握し、客観的に批判の目を向けることができるためにはレベル12の能力が必要であり、批判の目を向けるのみならず、批判を自分の言葉や表現活動を通じて形にしていくことができるためには、レベル12の能力および当該物語領域に対する十分な体験と観点(知識)が必要だ」というのが私の考えである。

知人の方から頂いたメールへの返信の中に、最後に追加して述べたのは、社会の物語が持つ虚構性を対象化した上でそれに対して健全な批判を投げかけるためには、実は段階特性以外にも重要なことがあるという点だ。

それは端的には、「社会の物語構造から強制的に外に出される体験」である。文字通り、「社会の物語構造の外に出て初めてその物語が内在的に秘めている虚構性がわかる」という現象が起こる。

例えば、失業によって強制的に企業社会からはじき出された瞬間に、企業社会を冷静な目で眺めることができるようになった、というような体験は十分に起こり得ることだろう。また、日本(日本語空間)の外に出て初めて日本の言説空間の構造的課題が見えるようになった、ということも十分に起こり得る。

回答の前半で言及した点はどちらかというと線形的な発達特性であり、上記の例は意識の状態とも関係する非線形的な発達特性によるものだと考えている。

「それほど高度な認知能力無しにも、社会の物語構造への問題意識は生まれえるのではないか?」という点は、上述のような強制的に社会の物語構造の外の世界にはじき出された(あるいは外の世界を突然に垣間見るような)体験が引き起こす非線形的な発達特性と関係しているように思う。

自己の囚われ及びこの世界への囚われから私たちを解放してくれる力を本質に持つ成人発達理論が食い物にされている現在の状況にあって、このテーマは非常に大切なものだと考えている。

既存の物語から脱却し、批判的な眼を持ってその物語に対して批判活動なり表現活動なりに従事できるためには上述の要件を満たす必要があるが、人々は一体いつまで既存の物語に盲目的であり続けるのだろうか。人々は一体いつまで既存の物語の中で幻覚を見続けるつもりなのだろうか。フローニンゲン:2018/6/12(火)19:35 

No.1067: A Path of Wind

Today’s weather is very calm and fresh. A path of wind looks like delighted. Groningen, 08:35, Sunday, 7/15/2018

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