早朝、ゴッホから影響を受けたフランス人の画家オディロン・ルドン(1840-1916)の作品をぼんやりと眺めていた。アムステルダムのヴァン・ゴッホ美術館で購入した五冊の画集の中のどこかにルドンの作品があり、それは私を強く惹きつけた。
有り体に言えば、ルドンの作品は実に幻想的であり、そうした幻想性の中の何かが自分を強く惹きつけている。その何かがわからなく、それを探しているような最中に今の自分はいる。
ルドンの絵の中に、自分にとって極めて大切なものが表現されているに違いない。いつか日本に帰る日がやってくれば、ルドンの作品が多く所蔵されている岐阜県美術館に足を運びたい。
ここ数日間、今後の自分の生活拠点について考える瞬間がたびたび訪れた。安住の地というものがなかなか見つからない。この世界において一体どこに自分は落ち着けばいいのだろうか。
自分の魂の持つ遍歴性を考えれば、確かにこれからも長く様々な場所で生活をしていくことになるだろう。同時に、この世界には必ずどこかに遍歴を望む自分の魂ですらも納得できる唯一の場所があるに違いない。
それがどこなのだろうか。そうした場所の候補をまずは探していく必要がある。
この世界にはまだまだ自分にとって知らない場所がありすぎる。それは日本においても同じだ。
以前より私は北海道に関心を持っている。いつか北海道に足を運び、その地を自分の目で確かめたい。
幼少時代から重ねてきた数多くの旅で訪れた場所について思い出す作業をしていかなければならない。今、何かを必死で思い出そうとしている自分がいる。
旅先で見たものや感じたものを思い出せる範囲で思い出していく。そこに魂の安住地に関するヒントが隠されているように思うのだ。
仮にいつか日本で生活をする日がやってくるのであれば、北海道を一つの候補として、その他にどのような候補があるかを探す必要がある。とにかく自然が豊かな場所であることと人が少ないことが重要な要件である。
この歳になって改めて思うのは、生活拠点の選択に関しては両親の感性から多大な影響を受けているということだ。欧州で生活を始めて以降、幼少期に過ごした場所がどれほど今の自分の人格形成に影響を与えていたかを知る。
山口県で幼少時代を過ごせたことは、私にとって何にも代えがたい財産であり、東京に住まないことを決心した両親の英断には本当に感謝をしている。何かが有るようでいて何も無いのが東京だ。
自分が生誕した場所である東京に対して、そしてこの人生の三分の一を過ごしてきた東京に対して言うのは忍びないが、東京で再度生活をするという馬鹿なことだけはしないようにしたい。
東京とは思えないような、人が少なく、自然が豊かな場所も東京には存在している可能性はあるため、いつかそれを確認しに東京に行く必要があるかもしれない。ただし、今は本当に気が重い。東京に住むことを考えるだけでも気が滅入ってしまう。
気づけば昼食まであと一時間ほどとなった。結局今日は午前中に論文の加筆修正をするのではなく、午後の仮眠を終えてから夕食までの時間にそれを行うことにした。
これから昼食までの時間を使って、モーツァルトに範を求めて一曲作る。昼食後すぐにもう一曲作る。その際にもモーツァルトの曲を参考にしようと思う。
昼食後に一曲完成した頃にちょうど仮眠の時間がやってくるだろう。いつものように20分ほど仮眠を取り、そこから論文の加筆修正に取り掛かる。
夕食後は音楽理論と作曲理論の学習に時間を充てたいと思う。日曜日はそのように進行していき、明日からの月曜日に向かっていく。フローニンゲン:2018/6/3(日)11:02