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2623.「我思う、故に我在り」という直接体験


早朝に天気予報を確認すると、今日は突発的に午後に雨が降るようだった。しかし、今改めて天気予報を確認すると、どうやら雨は降らないようだ。

このところ天気予報がよく外れる。それだけ天気の変動性が激しいということだろうか。

今書斎の窓の外に広がるのは、遮るものが一切ない青空である。視線を遠くに遠くに投げかけていくと、果てしない空に飲み込まれてしまうかのようだ。

視線を手前に持ってくると、緑に茂った街路樹が目に飛び込んでくる。街路樹の葉の先がそよ風に揺れている。

早朝は静けさに満ちていた街も、今は活気のある雰囲気が漂っている。月曜日の昼食前のこの時間帯は、週末のこの時間帯以上に活気で満ちている。

今日も私は相変わらず文章を読み、文章を書いている。そして午後からは作曲実践をするだろう。

自分という一人の人間がこの人生においてすべきことがようやく明らかになってきている。それに伴って、自分の生活のあり方が変わってきている。

以前よりも増して読む量・書く量が増え、そして創造活動に充てる時間が増えたように思う。「これでいいのだ」という自分の人生に対する絶対的な肯定感がある。

毎日全く同じことの繰り返し。それでいて、いやそれだからこそ毎日が全くもって新しく思える。

昨日と今日の自分は明確に同一な存在であり、同時にまるっきり異なる存在であることに気づく。反復と差異。それが自分の日々を満たしている。

昨日は長時間の座禅のため、読書をする時間や文章を書く時間がほとんどなかった。しかし、長時間にわたる座禅のおかげで自分の脳が再構成されたかのような感覚があり、今日は再び旺盛な読書と文章執筆に時間を充てることができている。

脳の古い皮質が剥がれ落ち、新たな皮質が誕生したかのような感覚がある。こうした感覚を生々しく体験してみると、脳に対する関心が強まる。

いや私が注目しているのは物理的な脳ではなく、意識現象の方だ。脳について未知なることは山積みだが、それ以上に意識現象に関することの方が謎が深いように思える。

昨日の座禅体験を経て、再び意識の可能性に関する探究を少しずつ進めていこうという気持ちを新たにした。

昨日の座禅の最中、様々な思考実験及び身体実験をしていた。そうした実験の一つの結果として、身体と深くつながることによって一段深い思考が可能になることに気づいた。

そこからさらに、身体とつながることに関しても階層構造があることに気づき、一つ一つ、あるいは時に一挙に階層構造の深くに潜っていくと、自分の脳がこれまでとは異なる働き方をすることに気づいた。

身体につながるというのは脳の深層部分とつながることを意味しているのかもしれない。身体意識の階層構造の奥深くとつながることによって、古い思考の膜が剥がれ落ちていくのを知覚する瞬間が何度もあった。

古い思考の膜が剥がれ落ち、新たな思考の膜が現れるたびに、私はその思考の新しさに驚いた。自分でもそのようなことがそのように考えることができるなど思ってもいないことが思考された。

思考内容については雑多なものであったが、いかなる思考内容もこれまでの自分には考えられない方法で思考が進められた。それはとても私を驚かせ、しばしば思考することを忘れて思考の中にいた。

自然と完全に合一するのと同様に、自らの思考とも完全に合一することができる。これは言うまでもなく、思考の客体化の未成熟さが生み出す現象とは一線を画しており、それは言うなれば、思考運動との積極的な同一化である。

思惟する自分が真に自分になるということ。これはもしかするとデカルトが述べていた「我思う、故に我在り」という言葉に近い「直接体験」なのだと思った。

デカルトの言葉を言葉として認識しても無意味である。これはその他の哲学者の言葉においてもそうだろう。

自らの直接体験から出発し、直接的な感覚をもとに思考を深めていくことが不可欠である。そんなことを改めて思う。フローニンゲン:2018/5/28(月)11:34 

No.1043: Festivals in Early Summer

I got up before five today, and I could watch a beautiful sunrise.

Anendless azure skyis appearing right now. A new day that looks like a festival in early summer began. Groningen, 06:38, Monday, 7/2/2018

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