青空の広大さと小鳥の鳴き声の美しさはわかる。確かに今も晴れ渡る大空を眺め、小鳥の鳴き声に私は耳を傾けている。
しかし、そうしたこと以上にどうしても今朝方の夢の内容がまだ気になる。夢の内容については早朝から随分と書き留めた。そのため、内容そのものについてはもはや言及する必要はほとんど無い。
だがなんとも言えない感覚が自分の内側の中に蠢いていることは確かである。このざわざわする感覚は一体なんだろうか。
こうした感覚こそ外側に形として残していくべきなのだ。一刻も早くこうした感覚を曲として表現したいと思う自分がいる。
このざわざわした感じは、内側にあるものが外側に出てこようとする衝動に違いない。あるいは、形を求めてやまないものが形を求めている叫びにも似た衝動だと言っていいだろう。
そのような感覚が今の自分の内側にある。こうした感覚を曲として形にしていくための技術を今日も高めていく。今はなんとか言葉や絵を通じてこうした感覚を形にしている。
それが行えるだけでも幸いであり、仮にそれらを言葉や絵を通じて形にしなければ自分は一体どうなってしまうのだろうと思う。
今朝方の夢の中で露わになった「死の先にある永遠への憧憬」によって引き起こされる感覚を曲として表現したい。さらには、そこで知覚される内的ビジョンについても音楽として表現する。
内的ビジョンについては「イマージュ」などの別の呼び名もあるが、いずれにせよ、そうした色と形を伴う心的現象を曲の中で表現していく。それを実現するためには、これから相当な修練が必要だろう。
前途多難であることは明らかだが、そこに向かっていく。向かっていかざるをえないものが自分の内側で蠢いており、それが自己を突き動かしている。
予定では午前中の読書を始める時間を迎えたが、このようにして文章を書き留めている。読書など優先されるべきものではない。
自分を捉えてやまないものを文章として書き留めること。それこそが最優先されるべきものだ。
自己を深めるのは誰なのか?それは自己だ。自己そのものに他ならない。
より厳密には、自己を突き動かす「それ」が自己を深める。自己を深めるものはそれ以外にない。
外面をなぞるだけの読書など全くもって意味がないのだ。それは自己の内側に情報をもたらすことはあっても、自己を真に深めなどしない。
自己を真に深める「それ」を形にすること。それを行うことによって初めて、自己が新たな形になっていく。
自己を捉えてやまないものが内側を走ったら、それを捕まえる。そして、それを文章として書き留める。これからはそれを絵として、さらには曲として形にしていく。
ここで私は、読書の意義を否定しているわけでは決してない。自己を深めるために読書をすること。それは何ら強調する必要性のない当たり前すぎる事柄である。
毎日書物を読むというのは当たり前すぎる行為なのだ。それを強調しようとする現代の風潮はどこかおかしい。
また、それを強調しようとする個人はどこかおかしい。書物を読むなんて当たり前だろうと私は思う。
「書け、書け、書け」という内側の声が小鳥の鳴き声をかき消す。二羽の小鳥が戯れながら書斎の窓の方に近寄ってきた。それを見て、心が休まる。
この世界には当たり前のことをしない人間が多すぎるのではないかと思う。日々を充実感と共に生きること、日々を幸福感の中で生きることは当たり前であるべきことのように思える。
自己を深め、世界へ関与しながら自己の人生を深めていくこと。これも当たり前すぎる事柄だ。さらには、書物を読むこと。これも自己を深めていく際に不可避な事柄である。
だが、人は書物を読むことを強調し、書物ばかりを読みたがるが、自分の毎日が、そして人生が一冊の巨大な書物であることに気づかないのはなぜか。また、そうした巨大な書物を自分で執筆していかないのはなぜなのだろうか。
自らの人生を著述できない人間に自らの人生を歩むことなど可能なのだろうか?他人の執筆した書物の中だけで生きる人間。自己の人生を自ら著述しようとしない人たち。
相変わらず「書け、書け、書け」という内側の声が聞こえて来る。この世界をなでるような穏やかな風が吹き、街路樹の木々が小さく揺れている。フローニンゲン:2018/5/24(木)08:36
No.1034: A Bridge of Adoration
Sometimes I don’t know where I’m walking in this life.
When I wander around a bridge between this world and the other world, I find the bridge to be replete with adoration. Groningen, 08:08, Wednesday, 6/27/2018