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2554. 自己と曲とのフィードバックループ


昨日は二曲ほど曲を作った。毎日の作曲実践はとても充実している。

小さな作品を絶えず作っていくこと。自分は作曲について解説をする人間ではなく、徹頭徹尾曲を作る人間であるということ。それらをもう一度頭に入れておくことが大切だ。

昨日曲を作りながら、コンピューターを活用した作曲というのは、仮説検証のサイクルを何度も回す上で極めて有益であると思った。これまで過去の偉大な作曲家の記念館や博物館をいくつも訪れてきたが、そのたびに彼らの自筆の楽譜には打たれるものがあった。

一方で、当時の作曲実践には科学技術における制約があったのだと知る。もちろん手書きで楽譜に一つ一つの音符を表していくことにも意義があるだろうが、仮説検証のサイクルを回すという観点ではそれはあまり望ましくない方法のように思える。

当時の作曲家は皆、ピアノの前に座って、実際に音を鳴らしながら手書きで楽譜に音を表していったのだろう。現在ではそれがコンピューターを通じて行える。

ここで気をつけなければいけないことは、技術の活用によって効率的になった作曲プロセスにおいて、いかに当時の作曲家のように身体感覚を用いながら作曲を行っていくかという点である。だがよくよく考えてみれば、コンピューターを用いて音の入力作業を行うことと手書きで楽譜に入力することは、作業の外観が違うことは確かでも、どちらも共に手を動かしていることには変わらず、コンピューターを用いた作曲が身体を用いていないかというと全くもってそうではない。身体の活用のさせ方が違うに過ぎない。

以前どこかで、コンピューターによるタイピング文化が発達したことに伴い、現代人の手の形が少しばかり変形し始めているという話を聞いたことがある。科学技術の進展によって日常の動作が変わり、それに応じて身体の形まで変わってしまう可能性について改めて考えを巡らせる。

手書きの文章にその人の人柄が表れるように、手書きの楽譜にもその作曲家の人柄が表れる。また、一筆入魂のように、手書きで文字や曲を表現していくことの中には魂が宿る。

こうしたことをコンピューターを活用したとしても実現できる次元にまで日々の実践の質を高めたいと思う。過去の人間が筆と同一化することによって一筆入魂を果たすことができていたのであれば、現代人にとってそれをコンピューターを活用してできないことはないように思う。

事実、キーボードと自己の身体の同一化が進んでいる日々の様子を眺めていると、一つのタイピングによって生み出される文字や音に魂を入れていくような意識を強く持ちたい。

そのようなことを昨日考えており、改めて作曲においてコンピューターを活用することの恩恵を今朝また振り返っていた。上述の通り、とりわけ作曲の初心者である今の私にとって、仮説検証を何度も行えることは最も大切なことであり、検証結果によってもたらされるフィードバックも大切な要素であると思った。

日々感じているのは、仮説検証のプロセスの中で音を生み出していき、生み出された音の総体から絶えずフィードバックを受けているということである。そして、ひとたび曲全体が完成したら、曲からもまたフィードバックを受ける。

学習において自己アセスメントは非常に大事であり、まさにそうした自己アセスメントを絶え間なく行う中で作曲実践に励むことができているように思う。音を生み出すごとにフィードバックが次々と自己になされ、それがある種の自己アセスメントの結果として自己に取り入れられ、それをもとに再び仮説検証を行っていく。

どこかその様子は、自己と曲との間に生まれたフィードバックループと形容していいものであり、そうした相互のフィードバック関係の中で自分の作曲技術が磨かれ、同時に曲自身も磨かれていくのだと思う。

自己と曲との間にあるフィードバック関係については今後も考察を深めていこうと思う。ここにまた学習の鍵が存在してそうである。フローニンゲン:2018/5/12(土)06:46

過去の曲の音源の保存先はこちらより(Youtube)

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