昼食後、少しばかり論文を読み、日記を書いたところで仮眠を取った。仮眠を取っている最中も、先ほど書き留めていた件について思考が回っていた。
午前中に、複雑性科学に関する哲学的な論文“What is Complexity Sciene, Really? (2001)”を読んでいた時、そこに記載されている科学と擬似科学を分ける基準を興味深く思った。ここであえてそれらの基準を一つ一つ紹介することをしないが、日本において——厳密には欧米も大して差はないが——成人発達理論が、擬似科学に区分される基準に基づいて扱われている様子が顕著である。
科学的な枠組みが擬似科学の枠組みに貶められる形で用いられる際の一つの特徴は、当該理論に立脚して実践を行う実務家が代替理論に関する知識を著しく欠くというものが挙げられる。この点についても何度も指摘しているように思うが、とりわけ成人発達理論に関する情報の少ない日本において、成人発達理論を活用しようとする実務家に見られるのはまさにこの点である。
ごく少数の権威的な理論に依存する形で——そしてそれらの理論に盲目的に依存していることに無自覚な形で——、代替理論に関する知識を持たないまま発達支援という実務に取り組んでいる事例を頻繁に見聞きする。
先ほどの日記で言及した、「単純なラベル貼り」という現象も、結局は一つの特定の段階モデルに囚われていることに大きな要因がある。言い換えれば、代替理論に関する知識不足という状態が当該問題の大きな要因になっている。
代替理論に関する知識を持たないことは、自らが立脚する理論モデルの限界に対する認識を曇らせる。科学と擬似科学を峻別する一つの基準は、ある科学理論に内包されている限界を絶えず反証を通じて検証していく姿勢にあると言える。
端的には、擬似科学には反証可能性の余地が確保されていない。昨今の日本を取り巻く成人発達理論の言説や実践のあり方には、自らの言説や実践が拠り所にする理論を省みる反証可能性の余地がほとんど見られない。
そこには代替理論に関する知識の欠落と、本来自己の認識の枠組みから徐々に解放されていくプロセスを解明していくことが本質である発達理論に対する本質理解の欠如が見られる。つまり、実践者の多くは発達理論という枠組みを、自己の限界を絶えず健全な批判の目を持って見つめることを促す発達理論の本質を骨抜きにした形で用いていることが顕著に見られる。
もう一つの問題は、擬似科学で見られるように、まだ実証的に何も明らかになっていない無数の仮説を真なるものだと誤認して発達支援を行うことである。これも頻繁に見受けられる問題だ。
人間の発達現象というのは非常に複雑で奥が深いものであるがゆえに、既存の研究で明らかになっていることは、全体のうちの極わずかに過ぎない。そのため、実証的に明らかにされたことだけをもってして議論を進めることは時に難しいことがあるのは確かだが、それにしても現在広まっている言動には、実証的に明らかになったこととまだ明らかにされていないことへの認識が極度に低いように思える。
何が明らかになっており、何が明らかになっていないのかの区別なく、全てが一緒くたに議論の上に上がっていることは大きな問題だろう。現在日本社会の中で成人発達理論への関心が高まりつつあるのは確かだが、乗り越えていかなければならない問題が山積みであるにもかかわらず、そもそも問題が問題として認識されない言説空間と実践空間が出来上がってしまっていることに問題があるように思う。フローニンゲン:2018/5/11(金)15:07