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2550. 優しい時の流れの中で


ポツリポツリと雲が青空に浮かぶ中、昼食前にランニングに出かけた。ランニングの帰り道に行きつけのインドネシア料理店に立ち寄り昼食を購入した。

今その昼食を食べ終え、これから午後の仕事に取り掛かろうとしている。長い冬が終わり、天候に恵まれた季節に入ってきたため、ようやく以前のように外に出てランニングをすることができるようになった。

厳密には、冬の時代もランニングを週に一度はしていたのだが、二ヶ月半ほどのインターンの期間のみ、ランニングがあまりできなかった。そのため、「以前のように」というのはインターンの前の状態を指す。

先週の金曜日に引き続き、今日改めてランニングに出かけてみると、身体を動かすことのなんとも言えない爽快感を感じた。人間の活動の根幹には身体がある、ということを改めて感じさせてくれるには十分であった。

心身の波が明瞭なものになり、波に活力がもたらされているのを感じる。とにかくこれからも、身体を動かすことの意義を忘れず、定期的に身体を動かしに外に出かけようと思う。

さらさらと流れていく小川のような風が吹いている。小川のせせらぎに揺れるかのように、街路樹の葉が小さく小刻みに揺れている。

今この瞬間、自分が優しい時の流れの中にいるような気がする。とても穏やかな流れ。

時の中に優しさと穏やかさを見出すことができるのは、私たちの魂の本質に優しさがあるからなのだろうか。一方で、時の流れの激しさも忘れてはならないと思う。

なぜなら、魂の本質には優しさのみならず激しさも備わっているからである。優しく激しい魂。

時の流れは緩やかで激しい。そのようなことを考えながら窓の外の風景を眺めていると、どこかこの世界の本質には、優しさと激しささえも包み込んでしまうような絶対的な静寂さがあるように思えてくる。

どこか自分の心が静かだ。最近特にそれを強く感じる。

優しく激しい魂の運動が起こる場そのものは静寂であり、魂の向かう先も静寂な場所なのかもしれない。

ランニングに出かける前に一つのことを閃き、それをノートに書きつけておいた。それは、自分がこれまで積み重ねてきた諸々の学びは現在取り組んでいる創造活動を始めるためにあったのだ、という気づきである。

科学と哲学の探究を通じて内外世界への認識を深めていく試みは全て、日記や作曲などの創造活動を行うためにあったのだということに気づかされた。これまで行ってきた全ての探究活動は、内外世界への理解を深めていくことだけに向かって進んでいたのではなく、深まった理解を通じて形を残していくための準備として存在していたのだ。

科学と哲学の探究は創造行為を始める上で不可欠のものであり、今後の創造活動を支える土台でもある。これからより一層創造活動に打ち込んでいくということはすなわち、科学と哲学の探究を継続的に行っていくということを意味している。

これまでの探究は今日の創造活動の準備であり、今日の探究は今後の創造活動の準備なのだ。そんなことをノートに書き留めてからランニングに出かけたことを思い出す。フローニンゲン:2018/5/11(金)13:33

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