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2539. 歩くことの意義


たった今、研究ミーティングを終えて自宅に戻ってきた。今日は本当に良い天気だ。

このセリフをここ何日かの間に何回も述べていたように思う。それほどまでにここ最近の天気は優れているということを意味しており、同時にこれまでの天気が厳しいものであったことを物語っている。

午前九時半に自宅を出発し、30分ほどの散歩を兼ねてザーニクキャンパスに向かった。行き道はいつもの通り、近くの運河沿いにあるサイクリングロードを歩いた。

最後にザーニクキャンパスを訪れたのは一ヶ月ほど前であり、気づきかない間に一気に生命の息吹が芽生えたことを目の前の景色は物語っていた。青々と茂る草木に、道端に花を咲かせているタンポポなどがとても印象に残っている。

そして、運河の上で戯れているカモや、木の上で美しい鳴き声を奏でている鳥たちの姿がありありと蘇ってくる。自分の足で歩くこと。オランダは自転車が主な交通手段の一つとなっているが、私はとにかく自分の足を使って歩きたいといつも思う。

歩ける範囲であれば、自転車も他の交通機関も使わない。自らの足で一つ一つの景色と同化していくことは、内側に落ち着いた流れをもたらす。

現代人が内側の流れに気づかず、外側の流れに汚染されてしまっているのは、単純に自らの身体を超えた形で物事を進めていこうとするような行動を日々取っているからではないかと思う。

確かに自動車や電車は便利だ。しかし、それらの手段を用いていては見逃されてしまう景色があるばかりではなく、何よりも自らの身体感覚までもが喪失してしまう。とりわけ、自然と自己との調和が崩れてしまう。

そんな危機に直面した時代に私たちは生きている。過去の偉大な創造者の多くが散歩を好んでいた理由というものが徐々に見えてくる。彼らは内的感覚に忠実になり、自然との調和を大切にしていたのだ。

自己の身体感覚を遥かに超えた人工的な時間の流れにできるだけ組み込まれないこと、そして自然のリズムと自己のリズムをできるだけ同調させること。そうしたことを行うことが、彼らの尽きることのない創造性につながっていたのではないかと思う。

そのようなことを考えながら、ザーニクキャンパスに向かっていると、程なくして目的地に着いた。まずは、いつもお世話になっている二人の博士とコーヒーを片手に世間話をした。

今日のオランダは最高気温が27度に達するが、やはりこれは異常とのことであった。明日は15度ほどまで落ち込み、夕方からは雨が降る。

「昨日は本当に暑かった」と二人の博士が述べているように、昨日も暑かった。話を聞いてみると、オフィスにクーラーがないとのことであり、「それは日本では考えられない」と私が述べると、「しかし、クーラーを使うような日は夏の間に15日あるかないかだ」とディエナム博士が述べた。

確かに、この二年間を振り返ってみると、夏の間に暑さを感じたのは15日あるかないかだった。正直なところ、窓のカーテンを閉めれば、クーラーが必要だと思った日は一度もない。

そうした事実がフローニンゲンという街の気候を物語っている。今日のように仮に暑い日であっても、湿度は高くなく、木陰や吹き抜ける風は実に爽やかだ。

そんなことを考えながら、今日のミーティングが始まり、実り多い形でミーティングを終えた。もし必要であればもう一度ミーティングの場を設けることになり、実質上ミーティングは今日で最後かもしれない。

来月の初旬にほぼ完成版の論文を二人に提出し、そこでまたコメントをもらう。コメント次第では再度ミーティングの場を設けるという流れになった。

二人の博士にお礼を述べ、私は建物の外に出た。燦然と輝く太陽と爽やかな風がそこにあった。フローニンゲン:2018/5/9(水)11:58

 
 
 

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