——私は流れる。ゆえに私である——リルケ
時刻は夕方の七時半を迎えようとしている。正午のような世界が今目の前に広がっている。
一切の雲がなく、晴れ渡る夕方の空。時折この街を吹き抜ける風がどこか心地よい。
先ほど夕食を摂りながら、はたと食事の手を止めた。自分は一体どこに向かっているのだろうか。
この内側に流れる確かな流れ。それは確信に満ちたものなのだが、流れの先は全くもって不確かだ。
そもそも流れには行き先があるのだろうか。あるとすればそれはどこへ向かっていくのだろうか。
仮に自分の人生そのものが巨大な一つの流れであり、流れしかそこに存在しないのであれば、流れに向かう先などあるのだろうか。「流れるからには向かう先がある」というのは本当だろうか?
全てが、本当に全てが流れに満たされており、流れしか存在しないのであれば、そこには向かう先などないように思えてくる。「私は流れる。ゆえに私である」というリルケの言葉が深く沁み入ってくる。
私は絶えず流れる。だがそこに向かう先などあるのかわからない。「向かう」というのはそこに未来が内包されているがゆえにおかしいのだ。
どこにも向かわない流れ。絶えず現在である流れの一地点。それを私は知覚している。そしてそれが自分だ。
今日は一体何をしていたのだろうか?と毎日思う。毎日だ。
絶えず読み、絶えず書き、絶えず作る生活。それをもっと徹底して行いたい。
ここ数日、就寝前に脳裏をよぎるのは、「創造活動だけに従事する生活を数年以内に必ず始める」という強い意志である。日記、曲、絵。それらだけ。
それらだけを絶えず創造し続ける毎日。そうした毎日を本当に送りたい。
そうした日々を送るためには随分と多くのことを捧げなくてはならないことを知っている。どこかで本当に自分の人生を生きなければならないのだ。
とにかく創造することだけに専念するような日々を必ず実現させようと思う。それは数年後からであってもいい。だが必ずそうした日々を送ろうと固く誓う。
今日は昼食後に、ドビュッシーに範を求めて曲を作った。楽譜の表面的な印象とは異なり、ドビュッシーの曲を参考にするのは相当に難しかった。
ある曲に範を求めるというのは、至難の技であり、ある曲を参考にするためにはそもそも技術が求められることに気づいてしまった。また、ある曲を参考にしようとした瞬間に、その曲が本来持っているイデア的な何かが崩壊する。
いくら似たように部分を積み重ねていっても作曲者が元来生み出していた全体に至ることはないという不思議さ。そこに作曲者の固有性と曲そのものが持つ固有性が宿る。
それはまさに曲の生命なのだということにはたと気づかされる。過去の偉大な作曲家の曲に範を求めるというのは想定以上に難しい。
いつも駄作の極みしか生まれない。たとえそうだとしても、駄作から始めなければならない。
いかなる発達現象にも潜む階層的複雑性を忘れてはならない。自分は底辺から始めなければならない。
「何をやってもいつもそうだったではないか」という心の声が聞こえる。本当にその通りだ。
最下層から歩くこと。しかも長く継続的にその地を歩むこと。これをしなければ何かが深まっていくことなどありはしないのだ。
小鳥が街路樹の高い場所から鳴き声を発している。あの鳥を見よう。あの鳥が空を飛ぶ前の姿を見よう。
地面から出発したはずだ。地面から始めること。地中から始めること。それを忘れてはならない。フローニンゲン:2018/5/5(土)19:42