相変わらず雨が降りしきり、強い風が時折吹いている。先ほど玄関の外に出る必要があり、ふと足元を見てみると、そこには青々とした草花が咲いていた。
ほんの数週間前には全くの裸の土しかそこにはなかったのに、いつの間にやらこのような青々とした草花が誕生していたことに驚かされた。とても立派な姿でそこに生きている草花を眺めていると、自分の内側から幾分力強いエネルギーが溢れてくるのがわかった。
日常に潜むこのような光景にも、私は本当に感動を覚える。フローニンゲンの街を包む世界が徐々に生き生きとしたものに変化している。
午前中にふと、この世界には、生きた姿が芸術になっている人たちがいることに気づいた。それは芸術家に留まらず、過去に偉大な仕事を成し遂げてきた人に共通の芸術性だと言えるかもしれない。
生きることは芸術的でありうるのだ。また、芸術とは生きることそのものの中に宿り得るのだ、ということに気づかされた。
生きることと芸術の意味がまた少し新たなものとして開かれていく。生、芸術、人間発達という三つの主題については、それらを架橋させる形で探究を深めていきたい。
これは常々述べていることだが、あえてここでもう一度強調しておきたいと思う。それらは間違い無く、今後の私にとって無くてはならないテーマになっていくだろう。
午前中に過去の日記を20本ほど編集した。時間が許せば、毎日20本ずつ日記を編集していきたいと思う。
過去の日記を読みながら、内的感覚を曲としてのみならず、絵画的に表現し始めたここ数日の自分について考えを巡らせた。すると、私はかねてから足を運ぼうと思っていた、フィレンツェにあるレオナルド・ダ・ヴィンチ博物館を今年の年末年始か来年の春に訪れてみようと思った。
デッサンとダ・ヴィンチの業績が突如として結びつき、今後の旅の計画が一つ露わになった。今朝も自分の作った曲に対してデッサンを行っていると、絵画的なものは音楽的なものを誘発し、音楽的なものは絵画的なものを誘発するという相互関係を見て取った。
音楽的なものと絵画的なものは、どこか深い次元で強く結び合っており、互いに影響を与え合っている。そうした深い次元というのがもしかすると、美的領域の本質に当たるものなのかもしれない。
作曲に関しては、いつも自分が想定しない音が生まれることに驚かされるが、それはデッサンにおいても同じである。内的感覚と内的ビジョンをデッサンしてみると、思ってもいなかったようなイメージがノートに姿を現してくる。
イメージを描く前、そして描いている最中にも想像できなかったようなものが生み出されてくるプロセスは本当に興味深い。創造プロセスの中には本当に未知な現象が無数に潜んでいる。
そうした現象を一つ一つ解き明かしていくことに従事したい。科学者・哲学者・芸術家としてそれを行うことができたらどれほど幸せだろうか。
デッサンについて考えを巡らせていると、どうも自分の内側に未だ眠り続けている内なる曼荼羅に考えが及ぶ。自分の内側に曼荼羅のようなシンボルが浮かんでは消えていくのが見えることがある。
それらのシンボルをなんとか形にしていきたいと思う。それを曲や絵に具現化させたい。この内的曼荼羅をまずは立体的に描く技術を高めたいと思う。
最初は二次元的なものからスタートし、徐々に三次元的なものになっていくだろう。三次元でのデッサンが習熟されて来れば、仮に描かれたものが三次元のものであっても、その中に無限の次元を内包することが可能になるだろう。あるいは、三次元の絵の中に無限の次元を表現することができるだろう。
その次元に向けて、毎日小さな実践を積み重ねていく。内側のものは外側に、外側のものは内側に。フローニンゲン:2018/5/1(火)13:45
No.997:A Pastoral Walkway
I’ve walked on various pastoral walkways all over the world. I’m recollecting the memories. Groningen, 09:46, Friday, 5/25/2018