top of page

2490. コンポジションセラピーの可能性


天気の変動に思いを馳せていると、自己が変容するに応じて自身の関心領域が変わっていくのは当然のことだという思いが湧き出てきた。仮に自らの内面が広く深いものに向かっているのであれば、関心の対象領域が拡張し、それが徐々に深まっていくのは当然である。

今の私は、芸術と人間発達に強い関心がある。とりわけ、芸術の領域の中でも音楽に関心があり、より厳密には、作曲という創造的な営みの中にある諸々の発達現象と作曲を通じた人間発達に関心がある。

楽曲を聴くことによって得られる直接体験と作曲を通じて得られる直接体験。そうした体験の深まりについても探究をしていきたい。

早朝から空を覆っていた薄い雲がさらに薄くなっていき、ほのかな太陽光がフローニンゲンの街に降り注いでいる。書斎の窓から外を眺めると、道端の花を摘んでいる夫妻の姿を見かけた。

この生涯をかけた探究に関して、今は本当に種を蒔くことに専念したい。撒いた種から芽がなり、花が咲くのはずっと後だ。そしてそれは、ずっと後になってからでいいのである。

実った実を収穫するのはもっとずっと後でいい。もしかすると、そうした実を収穫するのは自分でなくていいのではないかとすら思えてくる。とにかく今の私にできることは種を蒔き、一つ一つの種を愛情と情熱を持って育てていくことだけだ。

今日は午後から雨が降る予定になっている。早朝に、色鉛筆を使ってデッサンをしていこうと思い立った。そこからまた衝動的に、今日近くの文房具屋に行って早速色鉛筆を購入しようと思った。

欧州での三年目の生活は、これまでの二年間以上に旅に出かけることが多くなるだろう。来月と再来月は学会に参加することのついでに旅に出る。それ以降もほぼ毎月に一回はどこかの地に旅に出かけることになりそうだ。

これからの旅では、常に楽譜と色鉛筆を持参する。旅先では日記を執筆するだけではなく、それに合わせて作曲を行い、デッサンを行っていく。

日記、作曲、デッサンは三位一体だったのだ。この重要なことに今気づいた。

デッサンをしている最中に気づいたが、それは作曲と同様に治癒的かつ変容的な作用を持っているということだ。確かにアートセラピーというものが存在しているように、絵を描くことにはそうした作用があるのかもしれない。この点については、これからの体験を通じてより深めていきたいと思う。

もしかしたらアートセラピーの範疇なのかもしれないが、作曲実践が持つ治癒的かつ変容的な効能に着目した「コンポジションセラピー」というものが世の中には存在していないのではないかとふと思った。

作曲を始める前に私自身も思っていたことだが、作曲という実践はどこか難解な営みであり、音楽の才能に恵まれた一部の人にしかできない営みだと思われがちである。しかし私には、全ての人が何かしらのアーティストであるという確かな考えが芽生えてきており、とりわけ音楽というのは全ての人の中に固有のものが眠っているように思えて仕方ない。

人は絶えず意味を生成しながら、同時にその意味には固有の音が付随しているように思えてくるのである。そうした音を外側に表現する形で、治癒や変容が起こりうる可能性というものを見出しつつある。

ヴィクトール・フランクルが提唱したロゴセラピーの要諦には、人生の中に新たな意味を見出し、人生に付与していた既存の意味を変容させていくことが存在している。自分の内側に新たな意味を見出すことに付随して、自分の内側に新たな音を見出していくというのはどうだろうか。

そうした新たな意味と音が相まって、治癒と変容が起こりうる可能性を作曲実践は秘めているように思えてならない。フローニンゲン:2018/4/29(日)10:16

過去の曲の音源の保存先はこちらより(Youtube)

過去の曲の楽譜と音源の保存先はこちらより(MuseScore)

bottom of page