中欧旅行を境に、私は十数年ぶりにニュースを見るようになった。中欧旅行の最中にCNNのニュースを見たとき、そこで英米仏によるシリア攻撃の出来事を目撃した。
それ以降、自分の中の何かが動き出し、この世界の現実を直視しようという思いが湧き上がった。「ニュースを見て世界で起こっていることを知る」というのは馬鹿げたことである。それこそをこの十数年避けてきた。
この現実世界で起こっていることを知るというのはで何も始まらない。知ることを超え、この現実世界に自分なりの方法で関与するためにニュースを毎日少しばかり見るようにした。
雨が上がり、夕方のフローニンゲンの街に穏やかな雰囲気が戻ってきた。小鳥たちが小刻みなリズムで鳴き声を奏でている。手前の空にはまだ雨雲がうっすらとかかっているが、遠い空は夕日で照らされ始めている。
この世界は何も変わらないかもしれない。少なくとも、私たちが思っているよりもずっとこの世界はゆっくりと進化の方向に向かっている。
確かに、表面的な変化は激しく見えるかもしれない。だが、そうした変化を超えた本質的な世界の変容は、私たちが想像しているよりもずっとゆったりとした速度で成し遂げられていく。
仮にこの世界が何も変わらなかったとしても、この世界に関与していく。一人の人間がこの世界を変えることができるという発想は幻想であり、自己肥大化の最たる例である。
だが、それを分かった上で自分にできることを行っていく。それこそが人間としてこの世界で生きていくことではなかったか。それをしないことは、社会的な生き物である人間として生きることを放棄することにつながりはしないだろうか。
中欧旅行で見たことや感じたことを思い出す。それらを一言で述べれば、人々が固有の生を生きているということだった、と要約できるかもしれない。
「生きているということがそこにある」という確かな感覚。それを私はワルシャワとブダペストの街で感じていた。
一人一人の人間が固有の生を確かに生きているという事実。一人一人の人間が自分の仕事を持ち、その人なりの関与をこの世界に対して行っているということ。そうした人々の姿を見たとき、わずかばかりの希望の光が自分に差し込んできた。
一人の人間として生きることを放棄しないこと。すなわち、この世界と関わりながら日々を生きていくということをあきらめないこと。
最後の日まで人間として生きたいと思う強い気持ち。そうした思いだけが自分の内側にあるのではなく、それはもう行動として、形として外側に滲み出し始めている。溢れるものを止めることはできない。
先ほど、CNNのニュースでアフリカ人の医師が取り上げられていた。彼は医師としての仕事のみならず、ミュージシャンであり、かつ絵本を製作することを自らの仕事としていた。
彼のインタビューを聞いていると、それらの三つの異なる活動が一つの統一的な営みに思えてくる。事実、彼もそれを示唆するようなことを述べていた。
この世界への関与の仕方は無数にある。共通しているのは、絶え間ない創造の流れを持つこの世界に対して、自らの方法で創造を通じた形でこの世界に関わっていくことだ。一人一人の固有の生があるというのは、一人一人の固有の創造行為があるということだ。
なぜなら、生きるということは本質的に創造的な特質を持っているのだから。また、私たちは創造を運命付けられた生き物なのだから。フローニンゲン:2018/4/28(土)17:10