ここのところ良い意味で天気予報が外れることが多い。今日は午後から雨が降る予定だったのだが、その気配は今のところ全くない。
確かに少しばかり分厚い雲が空に浮かんでいるのが見えるが、今は太陽が輝きを見せている。国王の生誕日にふさわしい一日だ。
先ほど行きつけのチーズ屋に足を運んできた。その道すがら、街の中の家々にオランダ国旗が掲げられているのを見た。この国の国民は愛国心が強い傾向にあるのかもしれない。
さらにそれを裏付けるかのように、街中には人々がオランダを象徴するオレンジ色の帽子や冠のようなものを被っており、国王の生誕日を皆で祝福している。チーズ屋に到着するや否や、チーズ屋の女性店主が、店内には他に誰もいないにもかかわらず、「ここにいる国王の姿が見える?」と笑顔で尋ねてきた。
唐突な質問だったので何を問われたのか一瞬わからなかったため、質問を聞き返した。そこでもまた同じ質問が飛んできた。
そこで私は、その質問の意味を自分なりに解釈し、「姿は見えないが感じることならできる」と答えた。その答えに店主は嬉しそうに微笑んでいた。
その後、店主といつものように雑談をしていると、日本と同じように五月の最初の週はオランダも休みが続くそうだ。この二年間それに気づかなかったのは、どうやらフローニンゲン大学はそうした風習とは異なる形で動いているようだったからだ。
私は店主に、日本でも同じような週があり、それを「ゴールデンウィーク」と呼ぶと教えた。オランダにおいては、それは祝日と呼べるようなものではなく、歴史を紐解けば、戦争に関する休日として制定されたものらしい。両国において同じように休日が続く週があるにもかかわらず、その歴史的背景や文化的意味合いが異なることは興味深かった。
チーズ屋の店内から再び街に一歩踏み出した時、多くの人々で街が賑わっていることを改めて感じた。こうした祝日も気付けばこれから夕方に向かっていく。
午前中に数時間ほど論文の執筆に集中したおかげもあり、予定していたところまで執筆が進んだ。明日もまた同じぐらいの時間をかけて少しずつ前進したい。
要諦は一回で多く進まないことである。論文の執筆に時間を充てるのは一日のうち数時間で十分だ。三時間、あるいは二時間で十分だろう。
その時間を集中して少しばかり前進していくことが肝要だ。一気に彫刻を掘るのではなく、少しずつ丁寧に掘っていくこと。それを自分の仕事の信条にしたい。
先ほど仮眠を取っている最中にふと、日記の執筆というライフワークを継続させていきながらも、それとは別に論文の執筆も自らの仕事であるという明確な認識のもとに継続して論文を執筆していきたいと思った。
どちらも表現形式が異なり、開示される真実と深められるものが異なるゆえに、片方だけに従事していてはならない。確かに私にとってより重要なのは日記の執筆に違いないが、学術論文も継続して書き進めていく。
型に沿うという煩わしさの中に固有の価値を見出す。文章を書くという実践に関しては、日記と論文の執筆の双方をこれからも継続させていくという意思を再び明確なものにした。
今日の仮眠を取り終えた後、いつも以上に不思議な感覚があった。仮眠の短い時間を通して、自分がどこか全く別の時空間にいたような感覚に包まれたのである。あるいは、自分の内側で全く新しい何かが始まった感覚と述べてもいいかもしれない。
仮眠中の現象と仮眠後の自分の意識状態というのは、もしかすると真剣に観察する意義のあるものなのかもしれないと思えてくる。仮眠中に間違いなく何か大切なことが起こっている。
それを見逃さず、その現象がどのような意味と性質を持っているのかを今後できるだけ書き留めていきたいと思う。夜の睡眠中に見る夢についてだけ文章を書き留め、仮眠中の現象を蔑ろにするというのはどこかおかしい。
どちらも探究に値する何かを含んでいる。少しずつでいい。少しずつ、自分とこの世界を知っていこうと思う。フローニンゲン:2018/4/27(金)15:06