魂は形がないがゆえに形を求めようとする衝動を持っているのではないか。そんな気づきが夕食中にもたらされた。
形を持つことなく私たちの内側に存在している魂は、どうやらその存在を通じてこの世界に形を生み出そうとするような力を秘めているらしい。人類史において今に残る仕事を成し遂げてきた人物は全て、魂のこうした衝動に従っていたのだ。
魂は形を持っていないがゆえに形を求めようとするというのは、とても純粋な運動のように思える。今、それを「運動」と表現したが、最初は「意思」と名付けようと思った。
だが、魂は意思を持つというよりも、意思を超えて絶えず運動し続けている存在のように思えたため、「意思」という言葉を用いず、「運動」という言葉を用いた。形を求めようとする魂のこの特性について思いを巡らせてみると、欧州で生活をし始めて以降、突如として創造活動に邁進するようになった自分の歩みがよく理解できるようになった。
私の魂は、私が生まれてから何十年にもわたってこの瞬間を待っていたのである。私が形をこの世界に生み出すことを待ち続けていたのだ。
一人の人間の創造行為は、その人固有の魂の現れに他ならないということを最近強く思う。そうした思いと夕食時に芽生えた気づきは完全に合致している。
それでは、自己の存在とは本質的にはどのようなものを指すのだろうか。おそらく、魂が形としてこの世界に具現化することを支える役割、いやより正確には、魂がこの世界に顕現するための通り道のようだと言えるのではないか。
今、意思を持ってこの文章を書いている私は、魂の通り道だったのだ。学術論文を書くこと、日記を書くこと、作曲をすること。それらの全ては魂がこの世界に形として現れることを促す営みであり、それを行う私という存在は魂とこの世界をつなぐ道なのだ。そのようなことを思う。
夕方の七時半を迎えた。相変わらず日が高く、夕日が燦然と輝いている。先ほどまでの雨が嘘のように、今は晴れ渡る空が広がっている。早朝時に比べて風も穏やかである。
風が吹き荒れる時、雨が降り注ぐ時、そして空が晴れ渡る時、それらのいずれの時も魂は形になろうとして私に働きかけ続けている。どこからともなく魂の声が聞こえてきそうである。
今日はこれから再度作曲実践を行おうと思う。午後からザーニクキャンパスに行くことが分かっていたため、今日は午前中に作曲実践をすでに行っていた。
これから作る曲はバルトークの曲に範を求める。作曲実践に入る前に、作曲に関して得られた気づきについて書き留めておきたい。それは、自分が対象に入っていくのではなく、対象が自分に入ってくるという感覚についてである。
先ほど私がはたと気づかされたのは、私が作曲実践に入っていたのではなく、作曲実践が私に入ってきたという経験を私はしていたということだ。作曲を行い始めたのは今から数ヶ月前のことだが、その時の私は作曲を始めたのではなかったのだ。
あえて言えば、「作曲が私を始めた」のである。そうに違いない。私は作曲など始めていない。作曲が私を始めてくれたのである。
自分のこれまでの人生を振り返ってみると、今でも探究を続けているものに関しては、全て向こうの方が私の中に入ってきたという感覚がある。発達理論の探究はまさにその一例だろう。
私が発達理論の世界に入って行ったというよりもむしろ、発達理論の世界が私の中に入ってきたのである。これは些細なことのように思えるかもしれないが、私にとってはとても大切なことだ。
おそらく、人が一生涯をかけて積み重ねていく仕事との出会いというのはこのように、対象が自分の中に入っていくるという感覚を伴うものなのではないかと思う。それこそが自分の内側での真の出会いと言えるのではないだろうか。
私はこの短い人生の中で、本当に素晴らしい出会いをしてきたのだとつくづく思う。その出会いを常に大切にし、自分の魂が形になろうとするための道であり続けたいと思う。フローニンゲン:2018/4/25(水)19:42