雨が再び降り始めてきた。先ほどよりも勢いのある雨だ。
遠くの空に一羽の小鳥が足早に飛び去っていくのを見た。あの鳥は雨宿りするための場所を見つけるために急いでいたのだろうか。
なぜだか分からないのだが、今目の前に降り始めた雨を見て、この街で生活していることの有り難さをしみじみと感じた。私はフローニンゲンという街で生活をすることによって人間になったのだと思う。
失われた人間性を取り戻したと言った方が正確なのだろうか、それとも自らの人間性をわずかばかり深めることができたと言った方が正しいだろうか。いずれにせよ、この街で今このようにして生活を営んでいることがどれほど自分の人生にとって大切なことをかを思い知る。
過ぎ去った二年は本当に貴重であった。実際にはまだ二年経っていない。欧州での二年目の生活はまだ数ヶ月ほど残っているのだ。
八月から欧州での三年目の生活に入る。三年目の生活はこれまで以上に充実したものになると確信している。そうした確信が芽生えている理由についてはここでは書き留めない。
いくつもの幸運に恵まれた形で、三年目においては欧州でのこれまでの生活を一段高次元の空間においてまとめ上げていく。欧州で過ごす三年目は、これまでの二年間以上に積極的に旅に出かけ、より真剣に日記を書き、そして数多くの曲を作っていく。
旅に出かけることが目的なのではなく、ましてや世界の観光名所に足を運ぶことが目的なのではない。日々の一瞬一瞬をさらに深めていくこと、そして人生全体をさらに深めていくために旅がある。
そして、そのようにして深められた自己を通じてこの世界に関与していくことが大切になる。その一つの形がまさに、この個人的な日記であり、作曲である。
もちろん、ここに日本企業との協働プロジェクトを入れることもできる。それら全てを総括して創造行為と呼ぶのであれば、欧州での三年目の生活は本当に創造行為のみに邁進する日々となるだろう。
ほぼ一ヶ月に一回の旅行以外は、人と会うことをしない。外に出かけるのも近所のスーパーや行きつけのチーズ屋に行くこと、ランニングのために近くの公園に行くことだけに留める。
この地での三年目の生活の仕事の中心は自宅の書斎にある。ここが最も魂を安らかにし、精神を集中させることのできる場所だということが明確になってくる。
日記を書き留めていると、雨が止んだ。再び優しい太陽の光がフローニンゲンの街に降り注ぎ始めた。今はすっかり雨雲が消え、しばらくは晴天に恵まれそうだ。
自分のライフワークに日々専心できることの幸運。そして、自らのライフワークを通じてこの世界に参画し始めている今の自分を見て、私は嬉しくなる。
欧州で過ごす三年目もいろいろなことが自分の身に起こるだろう。だが、それら全てを含めて、欧州で迎える三年目の生活は自分の人生にとって果てしなく重要なものになると確信している。
自分がいかように日々を生き、自分が日々何を形としてこの世界に残しているのかについては、自分だけが知っていればいいのである。逆に言えば、自分だけは必ず知っていなければならない。
往々にして人は自らがどのように日々を生きているのかを知らないのだから。日々綴られる日記と日々形になっていく曲は、自らがどのように日々を生きているのかを黙って強く物語っている。フローニンゲン:2018/4/25(水)17:47