通りを走る車や自転車の数が増えてきた。いよいよ今日も本格的にこの街が動きだす時間となった
この街で私は一人の人間の生き方の可能性を模索している。私という一人の人間の一生を真に自分の人生として生きることとは、一体どのような生き方を指すのだろうか?そんなことを長らく考え続け、今は一つその答えらしきものを通じて日々を生きている。
この街の景色を書斎の窓から常に眺め、自らのライフワークを一歩一歩進めていく日々。そうした日々が一日、また一日と積み重なっていく。
結局私はそうした日々を、この街で千回以上送ることになった。だが、三年という月日は長いようでいて短いようにも思える。
わずか千回の日々が、固有のドラマを持っていることに驚かされる。「どうして日々がこうも異なるドラマを持っているのだろうか?」という問いを立てざるをえない。
そのシンプルな回答は、「外面世界と内面世界の双方が絶えず変化しているからだ」となるだろうか。だが、驚きを隠せない観点はそれではない。
外面世界と内面世界の絶え間ない変化を生み出しているものの正体が何であり、それがこうもありありと自分の人生に影響を与えているという点に驚いているのだ。日々は本当に毎日が新しく、毎日が異なった様相を帯びている。
「同じ川に二度足を踏み入れることはできない」というヘラクレイトスの言葉を思い出す。今日もまた二度と同じ日がやってこないであろう大切な一日になる。
今日という唯一の日に起こる小さな固有のドラマを日記に書き留めておきたいと思う。毎日毎日異なるドラマを見ていることは、やはり深い神秘の念を私に引き起こす。
日々の一つ一つのドラマのその先に、一つの大きな物語が待っているのだろうか。そんなことも考える。
一人の人間が固有の人生を生きるというのは、その人固有のドラマに気づき、その先に待つ大きな物語に向かっていく生き方のことを指すのかもしれない。私にできるのは、そのドラマを日記や曲として形にすることであり、それを通じて大きな物語に向かっていくことだろう。
今日は昨日に引き続き、論文の執筆に集中したい。今日は論文を書くためにある日なのだ。午前中から夕方にかけて集中的に文章を書いていく。
希望としては、今日の段階で論文の骨格は全て完成し、七割型完成したと言えるところまで文章を書いていくことである。まずは昨日からの続きとして、論文の“Results”のセクションから書き始める。
そのセクションを書き終えた後に、構成を前に戻る形で、“Method”と“Procedure”のセクションを書いていく。今日の執筆はここまでを目処にし、その後は、ブダペストの古書店で見つけた“Theoretical Knowledge (2005)”を読み進めることや、久しぶりに森有正先生の日記に目を通したいと思う。
今日という一日がどれだけ充実したものになるかはもう目に見えている。だがそれでも私は、今日という固有の一日が深く充実したものになるだろうということをあえて書き留める。
書くことは創ること。創ることは生きること。書くことは生きることである。フローニンゲン:2018/4/24(火)07:27