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2442. 【中欧旅行記】バルトーク博物館での大いなる励まし


今日は午前中にバルトーク博物館に足を運んだ。結論から述べると、ここを訪れて本当に良かったと思っている。

バルトークから得られた励ましには計り知れないものがある。昨夜から今朝方にかけて、実存的な抑鬱状態にあったが、今はもうそれが嘘のように活動エネルギーで充満している。

今朝のあの状態は一体何だったのかと今になって思う。おそらく根源的な問題はまだ解決していないであろうから、今後も似たような状態を経験するに違いない。

しかし、それらの現象もまた一時的な状態に過ぎないということを念頭に置き、それに深く囚われないようにすることが賢明だろう。人間の内面世界はこのように浮き沈みと紆余曲折を伴って深まっていくものなのだから。

暗夜から光の道へ一歩踏み出すことを可能にしてくれたのは、バルトーク博物館を訪れたおかげだと思う。朝食を摂り終えた私は、ホテルのすぐ近くにあるバス停でバスに乗り、博物館に向かった。

バスに30分ほど乗っている際の景色は大変素晴らしかった。ブダペストの中心街を通り抜け、バスはどんどん郊外に向かっていく。

昨夜ふと、仮にブダペストに住むのであれば中心部から少しばかり離れた郊外にしたい、と思っていた。街の中心部にも公園などの緑があるが、郊外はより豊富に緑があり、とても落ち着いた印象を私に与えた。

バルトーク博物館の最寄りのバス停で降りると、どこからともなく小鳥の鳴き声が聞こえてきた。バルトーク博物館へと続く道は坂道になっており、小鳥の鳴き声に導かれる形で私は歩みを進めた。

数分ほど坂道を登っていくと、そこに一軒の白い家があり、そこが博物館だった。博物館の標識を見つけたが、中に入るにはどうしたらいいのだろうかと迷っていた。

というのも入り口には鉄格子のドアがあるのだが、「ドアを押して開けないでください」とハンガリー語と英語で表記されていた。「であれば引いて開けるのか?」と思ったが、引いても開かなかった。

裏手に回ろうとした時、道端に止まっていたタクシーの運転手が車から降りてきて、親切にも「そのドアは手動では開きません。そこにあるボタンを押して中にいる係員に知らせてください」と笑顔で教えてくれた。

私はこの親切なタクシードライバーにお礼を述べてからボタンを押し、無事に館内に入ることができた。この博物館は実際にバルトークが住んでいた家であり、周りの環境はとても落ち着いていた。

今でも周りに住居は少なく、山の自然に取り囲まれている。バルトークが住んでいた当時はより静かな環境であったに違いないと想像した。

この博物館も昨日足を運んだリスト博物館と同様に、非常にこじんまりとしている。だが、館内に入ってみてすぐに気づいたが、リスト博物館よりもずっと綺麗だった。

屋根裏部屋を含めると、一階から三階まで見学することができる。各階にはバルトークのゆかりの品々が展示されている。

受付でチケットを購入すると、受付の若い男性がこれまた親切であり、そこでしばらく彼と話をした。私が訪れた時にはもう一人の訪問者しかいないようであり、館内はとても静かだった。

:「この博物館はとても綺麗ですね」

受付の男性:「ええ、実は数年前に改築したんです」

:「あぁ、どおりで綺麗なんですね。博物館の見学に際してオーディオガイドはありますか?」

受付の男性:「あいにくオーディオガイドはまだなく、今作成している最中なんです。その代わりに入場料にプライベートガイドが付いてますよ。ちょうど今別のお客さんにガイドが付いているのでもう少し待ってもらえますか?」

:「プライベートガイドが付いてるんですか、それは有り難い。ええ、お土産を見ながら待ってます」

この博物館の入場料には有り難いことにプライベートガイドが付いていた。チケットの価格はとても安く、それでいてガイドが付いていることを嬉しく思った。

お土産売り場でバルトークに関する書籍を探していると、一冊ほどとても貴重な書籍に出会うことができた。それは“My Father (2002)”という書籍である。

これは、バルトークの二番目の息子であるピーター・バルトークが執筆したものであり、本書には父であるベラ・バルトークにまつわる様々なエピソードが盛り込まれており、バルトークという作曲家を多面的に理解するには価値ある書籍だと思う。

本書はハンガリー語から英語への翻訳版であったため、比較的高価な書籍ではあったが、私は迷わずこの書籍を購入することにした。書籍と博物館のガイド本を購入してからも、しばらく受付の男性と世間話をしていた。話の内容はもっぱらハンガリーと日本に関するものだだった。

20分ほどしたところで、もう一人の訪問者がドアから外に出て行った。その時にガイドに対して英語と日本語の両方で挨拶をしていたことから、日本人の方が来ていたのだとその時に知った。

受付の入り口のところで一人の女性が微笑んでおり、彼女がガイドをしてくれるのだと分かった。ガイドの女性に挨拶をすると、その方が開口一番に述べたのは、「今来られた方も日本人で、大使館にお勤めの方のようです」と述べた。

大使館に勤めておられる方が私の前に来られたことは偶然であったが、多くの日本人がこの博物館に訪れることを先ほど受付の男性から聞いていた。その女性のガイドはとても接しやすく、私が様々な質問を投げかけても全て親切に答えてくれた。

ちょうど二階の部屋の入り口に、バルトークに関する年表が掲示されていた。しかも右端には日本語のものまで律儀にあった。

:「バルトークは1912年に公的な音楽活動をしばらく止めた、と書かれていますが何があったのですか?」

ガイドの女性:「はい、バルトークの音楽は当時とてもモダンだったんです。革新的と言った方が正確でしょうか。だからバルトークの音楽は当時の音楽界の人たちにそれほど認められることがなく、バルトークは公的な演奏をしばらく止めたんです」

:「そうでしたか。バルトークは民族音楽を熱心に探究していたと聞き、クラシック音楽にそれを組み入れようと尽力していたように思うのですが、そうした試みがあまり理解されなかったのでしょうか?」

ガイドの女性:「ええ、バルトークは熱心に民族音楽を探究し、それをクラシック音楽に融合させようとしていました。ですがその試みは当時は先端的であり、あまり共感を得るものではありませんでした」

:「なるほど。それでもバルトークは民族音楽とクラシック音楽との統合を進めていきましたよね。このあたりは何が彼の心を動かしていたのでしょうか?」

この質問にガイドの女性は少しばかり笑みを漏らした。一瞬沈黙があり、こう答えた。

ガイドの女性:「バルトークは未来に向けて作曲したんです」

この言葉に私は大きな感銘を受けた。民族音楽の探究を始めた頃のバルトークの試みは周りの人から共感を得ることはそれほどなく、それでもバルトークはその探究をやめなかった。

その後に見た資料から伝わってきたのは、バルトークは何かに取り憑かれたかのように民族音楽の探究を行い続けていたことだった。バルトークはその試みを私的な探究に閉じるのではなく、未来の人々に向けて行っていたということが強く私の心を打った。

しばらく私は年表の前にたたずみ、バルトークの魂の熱量を感じていた。ブダペスト:2018/4/19(木)16:20  

No.978:A Capricious Stone-Paved Road

Our lives look like a capricious stone-paved road.

Just after we stumble on the road, we can find a shining stone. Our lives are like that. Groningen, 08:01, Thursday, 5/10/2018

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