フローニンゲンを出発してから四日が経つが、この四日間はめぼしい夢を見なかった。厳密には夢を見ていたことは確かなのだが、それが印象に残るほどのものではなかった。
大抵旅に出るときは強い印象を持つ夢を見るのだが、今回に限ってはあまり印象的な夢を今のところ見ていない。私の無意識がどこか静かである。
不気味なほど静かにしているのはなぜなのだろうか。このようなことを書いていると、いつも決まってその日の夜には印象的な夢を見る。ワルシャワに滞在した四日間で堆積されたものが、今夜は夢として表出するかもしれない。
昨日読み進めていた書籍の中に、Janusz Korczakというポーランドの教育哲学者の教育思想が解説されており、それを興味深く読んでいた。一番印象に残っているのは、教育の目的とサイコセラピーの目的は限りなく等しい、という彼の教育思想である。
教育実践とセラピーの実践は領域が異なるため、本来それらの目的は異なるが、自我の固着物からの解放と経験からのさらなる学びという点は両者において共通している。つまり、サイコセラピーも教育も、それらの共通の目的を起点にして、治癒と変容を促すものであることは共通しているのだ。
もちろん、二つの領域における治癒と変容の意味合いは、領域が異なるがゆえに若干異なってくるが、究極的には人間の治癒と変容を促すものであるという共通性を持っている。教育が変容的なものであるというのは理解しやすいが、治癒的なものであるとういのはどういうことかを考えていた。
そもそも、教育に変容作用があるのであれば、変容と治癒は表裏一体の関係になっているのであるから、教育の治癒的作用に気付かないというのはおかしい。しかし、これまでの私はその点を見過ごしていたようだ。
教育の治癒的な側面は、経験からの新たな学びを通じて、既存の自我に付着していた諸々の事柄(例:発想の枠組みや自己認識など)を変容させていくことによって得られるものだろう。変容過程には常に治癒的作用が生じていることの意味を再度考える。
もちろん、変容の最中は既存の課題を乗り越えていくために強い葛藤を覚えることがしばしばあるが、そうした葛藤を覚えることも一つ治癒的な側面ではないだろうか。ある意味それは、自己の中にある膿を出すような痛みであり、膿を出すことによって治癒がもたらされることに似ている。
こうしたことは新たな経験から自己の新たな側面を学んでいく際に不可避に生じうる。自己の新たな側面を学ぶことは、既存の自我に固着していたものを引き剥がすことを余儀なくさせるからである。
そこからさらに考えを進めていたのは、サイコセラピーも教育も、そこには新たな意味を発見していく試みがあるという点についてである。やはり私たちは、新たな意味を紡ぎ出すことによって、既存の自己の表皮を一枚一枚脱ぎ捨てていくのだろう。
その過程では変容と治癒に伴う痛みが伴うことは当然ある。新たな意味を見出し、新たな意味を絶えず創出することに伴う痛み、そして治癒的・変容的作用については今後も考えを深めていきたいテーマである。
ブダペストに向けての出発までまだ時間があるから、昨日の続きを読み進めていきたいと思う。ワルシャワ:2018/4/17(火)06:43